明治維新から第一次世界大戦前までとは? わかりやすく解説

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明治維新から第一次世界大戦前まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:42 UTC 版)

日独関係」の記事における「明治維新から第一次世界大戦前まで」の解説

戦前は、政治・経済文化に至るまで、ドイツ模範とした体制を採り入れた歴史的な経過から、ドイツ語オランダ語(同じゲルマン語派西ゲルマン語群)に近く翻訳しやすい素地があったうえ、プロイセンによるドイツ帝国成立明治維新はほぼ同じ時期起きており、西欧近代化範例として受け入れやすく日本の軍事法体系政体、あるいは医学哲学など民生多く影響受けたドイツへ留学した日本人第一号は1868年会津藩医学研究のためにハイデルベルク大学派遣した小松済治である。翌年には土佐藩から萩原三圭、長州藩から青木周蔵留学した1873年7月ドイツ商船ロベルトソン」が航海中に台風遭い宮古島沖合座礁した。これを発見した住民一晩中たいまつの灯で乗組員勇気づけ、荒れ狂う海に小舟出して乗組員救助その後1ヶ月あまり手厚く看護し、無事本国送り返した。このことに感激したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世1876年村民博愛精神讃えるために宮古島に「博愛記念碑」を建立した明治政府1871年から73年にかけて岩倉使節団欧米派遣しドイツにも立ち寄った。(この様子は『米欧回覧実記』で詳しく記される。)1873年3月15日にはオットー・フォン・ビスマルク首相に謁見し、当時国際社会弱肉強食原理成り立っていることを改め知らされた。この頃、3人のドイツ人北海道植民地にするという試案出しており、初代在日公使マックス・フォン・ブラントビスマルク宛てに『北海道植民地化計画に関する意見書送っている。この出来事軍事力では当面西欧諸国太刀打ちできない以上、日本欧州列強植民地化免れるには西欧世界国際社会)のルールをよく知り西欧諸国のように振舞なければ成らない中国のように植民地化される隙を見せない様にする)という日本基本的な方針を得る転機となった当時ドイツは、領邦分立国家中央集権統一したばかりという点で日本状況がよく似ていたこともあり、軍事法制医学始めとする多く分野において手本とした。伊藤博文大日本帝国憲法作成にあたってベルリン大学憲法学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学ローレンツ・フォン・シュタイン師事し歴史法学研究している。東京帝国大学(現・東京大学)が西欧諸国から招聘した教員にはドイツ人多く1876年エルヴィン・フォン・ベルツ博士来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石教え受けたラファエル・フォン・ケーベル化学ではゴットフリート・ヴァグナーなどがいる。ドイツ学術取り入れることを目的とした獨逸学協会学校獨協大学源流となる)も設立されゲオルク・ミヒャエリス招聘され法学教えている。日本陸軍は特に普仏戦争以後ドイツ陸軍モデル装備戦略などの整備進めた日本代表する文豪である森鷗外軍医として陸軍採用され直後衛生学ドイツ軍医療体制研究のためドイツ派遣され、その留学体験をもとに舞姫執筆した近代日本医学におけるドイツの影響力は圧倒的で、20世紀後半まで「医師診療カルテドイツ語で書く」のが不文律という状況だった。学術技術言語としてドイツ語教育重視され多く知識日本流入した。また帝国大学旧制高等学校学生の間ではドイツの哲学文学強く愛好された。多く旧制高校では英語を第一外国語とする文甲、理甲、ドイツ語第一外国語とする文乙、理乙クラス設置されフランス語第一外国語とする文丙、理丙クラス置かれ高校はごく稀だった。多く旧制高校寮歌では、歌い出し合図に「アインツヴァイドライ」(ドイツ語一、二、三)が用いられたほか、「アルバイト」を初めとして学生間でもドイツ語多く流入した戦前日本における仏教学インド学分野でも、フリードリヒ・マックス・ミュラーなどの優れた研究者輩出するほど、世界的に高いレベルにあったドイツにおける研究参考にされ、当時日本の仏教学者インド学者多くも、ドイツ語習得したまた、ドイツ医学学んだ留学生には、小金井良精どのように人類学学んだ者もいたが、日本への人類学導入とともに人類学と密接に関連する分野である地理学地質学生物学古生物学考古学歴史学なども、強い影響受けた当時ドイツ連邦から議長国であったオーストリア分離し伝統的ドイツ二つ国家別れたばかりであったが、文学学術音楽などにおいては依然として一体化したドイツ文化として流入し、特にドイツ音楽は、当時世界席巻する状況にあったことを差し引いて日本ではとりわけ西洋音楽規範として圧倒的位置占めることになる。 一方交流拡大に伴いドイツ側にも日本研究への関心高まった1873年には在日ドイツ人交流組織兼ねた研究団体としてOAGドイツ東洋文化研究協会 (OAG, Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)が東京設立され1904年には社団法人となったビスマルク時代比較落ち着いていた日独関係だったが、1890年ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世即位すると、ドイツ日本への姿勢硬化させた。日清戦争直後1895年にはロシアフランスとともに三国干渉行って遼東半島日本租借清から)を撤回させ、臥薪嘗胆唱える日本側の対独感情悪化した日露戦争前の時期にはロシアの目を極東に逸らす意図などからヴィルヘルム2世黄禍論唱えている。同戦争先立つ1902年ロシアインドへの南下姿勢強めるなかで危機感をもったイギリス日本日英同盟結んだこの際ヴィルヘルム2世は「白人種の裏切り」として人種問題観点からイギリス非難している。

※この「明治維新から第一次世界大戦前まで」の解説は、「日独関係」の解説の一部です。
「明治維新から第一次世界大戦前まで」を含む「日独関係」の記事については、「日独関係」の概要を参照ください。

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