明治維新から第一次世界大戦前まで
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「日独関係」の記事における「明治維新から第一次世界大戦前まで」の解説
戦前は、政治・経済・文化に至るまで、ドイツを模範とした体制を採り入れた。歴史的な経過から、ドイツ語がオランダ語(同じゲルマン語派の西ゲルマン語群)に近く翻訳しやすい素地があったうえ、プロイセンによるドイツ帝国成立と明治維新はほぼ同じ時期に起きており、西欧近代化の範例として受け入れやすく日本の軍事、法体系、政体、あるいは医学、哲学など民生の多くで影響を受けた。ドイツへ留学した日本人第一号は1868年に会津藩が医学研究のためにハイデルベルク大学に派遣した小松済治である。翌年には土佐藩から萩原三圭、長州藩から青木周蔵が留学した。 1873年7月、ドイツ商船「ロベルトソン」が航海中に台風に遭い、宮古島沖合で座礁した。これを発見した住民は一晩中たいまつの灯で乗組員を勇気づけ、荒れ狂う海に小舟を出して乗組員を救助。その後も1ヶ月あまり手厚く看護し、無事本国へ送り返した。このことに感激したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は1876年、村民の博愛精神を讃えるために宮古島に「博愛記念碑」を建立した。 明治政府は1871年から73年にかけて岩倉使節団を欧米に派遣しドイツにも立ち寄った。(この様子は『米欧回覧実記』で詳しく記される。)1873年3月15日にはオットー・フォン・ビスマルク首相に謁見し、当時の国際社会は弱肉強食の原理で成り立っていることを改めて知らされた。この頃、3人のドイツ人が北海道を植民地にするという試案を出しており、初代在日公使・マックス・フォン・ブラントはビスマルク宛てに『北海道植民地化計画』に関する意見書を送っている。この出来事は軍事力では当面、西欧諸国に太刀打ちできない以上、日本が欧州列強の植民地化を免れるには西欧世界(国際社会)のルールをよく知り、西欧諸国のように振舞わなければ成らない(中国のように植民地化される隙を見せない様にする)という日本の基本的な方針を得る転機となった。 当時のドイツは、領邦分立国家を中央集権に統一したばかりという点で日本と状況がよく似ていたこともあり、軍事、法制、医学を始めとする多くの分野において手本とした。伊藤博文は大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学を研究している。東京帝国大学(現・東京大学)が西欧諸国から招聘した教員にはドイツ人が多く、1876年にエルヴィン・フォン・ベルツ博士が来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石も教えを受けたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリート・ヴァグナーなどがいる。ドイツの学術を取り入れることを目的とした獨逸学協会学校(獨協大学の源流となる)も設立され、ゲオルク・ミヒャエリスが招聘されて法学を教えている。日本陸軍は特に普仏戦争以後はドイツ陸軍をモデルに装備、戦略などの整備を進めた。日本を代表する文豪である森鷗外も軍医として陸軍に採用された直後に衛生学やドイツ軍医療体制の研究のためドイツに派遣され、その留学体験をもとに舞姫を執筆した。近代日本医学におけるドイツの影響力は圧倒的で、20世紀後半まで「医師は診療カルテをドイツ語で書く」のが不文律という状況だった。学術・技術言語としてドイツ語教育が重視され、多くの知識が日本へ流入した。また帝国大学・旧制高等学校の学生の間ではドイツの哲学・文学が強く愛好された。多くの旧制高校では英語を第一外国語とする文甲、理甲、ドイツ語を第一外国語とする文乙、理乙クラスが設置され、フランス語を第一外国語とする文丙、理丙クラスが置かれた高校はごく稀だった。多くの旧制高校の寮歌では、歌い出し合図に「アイン、ツヴァイ、ドライ」(ドイツ語で一、二、三)が用いられたほか、「アルバイト」を初めとして学生間でもドイツ語が多く流入した。戦前日本における仏教学やインド学の分野でも、フリードリヒ・マックス・ミュラーなどの優れた研究者を輩出するほど、世界的に高いレベルにあったドイツにおける研究が参考にされ、当時の日本の仏教学者やインド学者の多くも、ドイツ語を習得した。また、ドイツで医学を学んだ留学生には、小金井良精などのように人類学を学んだ者もいたが、日本への人類学の導入とともに、人類学と密接に関連する分野である地理学や地質学、生物学、古生物学、考古学、歴史学なども、強い影響を受けた。当時はドイツ連邦から議長国であったオーストリアが分離し、伝統的ドイツは二つの国家に別れたばかりであったが、文学、学術、音楽などにおいては依然として一体化したドイツ文化として流入し、特にドイツ音楽は、当時世界を席巻する状況にあったことを差し引いても日本ではとりわけ西洋音楽の規範として圧倒的位置を占めることになる。 一方、交流の拡大に伴い、ドイツ側にも日本研究への関心が高まった。1873年には在日ドイツ人の交流組織も兼ねた研究団体としてOAGドイツ東洋文化研究協会 (OAG, Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)が東京に設立され、1904年には社団法人となった。 ビスマルク時代は比較的落ち着いていた日独関係だったが、1890年にドイツ皇帝にヴィルヘルム2世が即位すると、ドイツは日本への姿勢を硬化させた。日清戦争直後の1895年にはロシア、フランスとともに三国干渉を行って遼東半島の日本租借(清から)を撤回させ、臥薪嘗胆を唱える日本側の対独感情も悪化した。日露戦争前の時期にはロシアの目を極東に逸らす意図などからヴィルヘルム2世が黄禍論を唱えている。同戦争に先立つ1902年、ロシアがインドへの南下姿勢を強めるなかで危機感をもったイギリスは日本と日英同盟を結んだ。この際、ヴィルヘルム2世は「白人種への裏切り」として人種問題の観点からイギリスを非難している。
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