ドイツの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
ツワナ人の予想通り、1870年を過ぎると、アフリカーナーの膨張が再開した。トランスヴァール地方のみならず、北西のリンポポ川を越えてさらに北方の領有権を主張し始めたからだ。ボツワナの主要な耕地と人口密集地帯はリンポポ川の北岸に広がっていたため、ツワナ人は窮地に立たされた。高原を形成していたトランスヴァールとそこから緩やかに下っていく平原(ボツワナ)は一体であり、侵入を防ぐ天然の防壁は存在しない。このため、当時の最大部族であったングワト族の首長カーマ3世はイギリスに保護を求めた。しかし、砂漠とステップ地帯だけが広がるボツワナを守る利点がイギリスには存在しなかったため、保護は得られなかった。 ちょうどよいタイミングで状況を救ったのがドイツの動きである。1871年のプロイセンによるドイツ帝国成立を受け、後発ながらアフリカの植民地化を開始したドイツは、南部アフリカに取り残されていた現在のナミビアに目を付けた。ナミビアは南極環流から北上するベンゲラ海流の影響を強く受け、沿岸にはナミブ砂漠が広がり、不毛の土地と考えられていた。唯一、中央部沿岸の良港ウォルビズベイが1878年にイギリスのケープ植民地の飛び地として成立していた。1883年、ドイツの貿易商アドルフ・リューデリッツは地元の首長と交渉し、ウォルビズベイを除くすべての沿岸の権利を獲得した。イギリスはドイツと交渉に入ったが、ボーア人とドイツ人が連合することだけは避けたかった。イギリスとしては重要な南アフリカを守る必要があるため、ナミビアでは譲歩することとなり、海岸線から東経20度に至る広大な土地をドイツの植民地として認めざるを得なくなった。これが、ドイツ領南西アフリカの成立である。21世紀に至る現在でもボツワナとナミビアの国境のうち約1/2は東経20度線そのものである。1884年にアフリカ大陸東岸のタンガニーカに権利を得たドイツは両植民地の接続をもくろむ。1890年には東岸に流れ下るザンベジ川へのナミビアからの回廊をイギリスとの交渉で取得している。結局、長さ440km、幅30kmのカプリーヴィ回廊が当時のそして現代のボツワナの北限となった。 ドイツの影響は東側と北側からだけではなかった。1887年、ボーア人のトランスヴァールとポルトガル領東アフリカ、現在のモザンビークを結ぶ鉄道計画が興る。モザンビークのデラゴア湾の名前を取り、デラゴア鉄道と呼ばれた。このとき建設資金を提供しようとしたのがドイツである。鉄道が完成すれば、ボーア人はケープタウン港を経由しなくても鉱物資源を輸出できる。ドイツとしてはイギリス勢力をアフリカ南端に抑えこみ、自らのタンガニーカ植民地とナミビアを鉄道で結ぶことができる。ドイツは海軍を動員し、イギリスを牽制した。
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