ドイツの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 02:03 UTC 版)
「南西アフリカ (南アフリカ委任統治領)」の記事における「ドイツの植民地」の解説
詳細は「ドイツ領南西アフリカ」を参照 1884年からドイツの植民地となっていたこの地は、ドイツ領南西アフリカ (Deutsch-Südwestafrika) として知られていた。この地域は、特にゲリラのリーダであるヤコブ・モレンガ(英語: Jacob Morenga)が主導した、数々の暴動を経験しており、ドイツは統治に難儀した。主要港・ウォルビスベイ・ペンギン諸島(英語版)は、ドイツ統治前の1878年、既にイギリスに併合され、ケープ植民地の一部となっていた。1910年に南アフリカ連邦が成立すると、ウォルビスベイはケープ州の一部となった 。1890年にイギリス・ドイツ間で締結された、ヘルゴランド=ザンジバル条約で、ベチュアナランド国境からザンベジ川までの回廊が、ドイツの植民地に加わった。この回廊はドイツの首相であるレオ・フォン・カプリヴィにちなみ、カプリヴィ回廊 (Caprivizipfel) と名付けられた。
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