ヘルゴランド=ザンジバル条約とは? わかりやすく解説

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ヘルゴランド=ザンジバル条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 13:49 UTC 版)

ヘルゴランド=ザンジバル条約
署名 1890年7月1日
署名場所 ベルリン
締約国 イギリス
ドイツ帝国
主な内容 英独両国の海外領土交換
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ヘルゴラント=ザンジバル条約ドイツ語: Helgoland-Sansibar-Vertrag)は、1890年7月1日に当時のイギリス帝国ドイツ帝国の間で結ばれた条約。イギリス側の名称でヘリゴランド=ザンジバル条約英語: Heligoland-Zanzibar Treaty)と記されているものもある。

領土の交換

ドイツが獲得した領土

この条約は、ドイツが東アフリカザンジバル北海ヘルゴラント島を交換したかのように誤解されることが多い。正確には、ドイツは北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現在のナミビアザンベジ州)及びドイツ領東アフリカの核となるダルエスサラーム海岸(後のタンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)を獲得した。

カプリビ回廊は、ドイツの植民地であるドイツ領南西アフリカドイツ領東アフリカを結ぶザンベジ川が通っており、ドイツはその航路の確保を目的として回廊を獲得した。しかし、ザンベジ川には世界三大瀑布の一つとしても知られるヴィクトリアの滝などがあったため、航行は不可能だった。

イギリスが獲得した領土

ドイツは条約で、ケニア海岸沿いにある小さな保護領ウィトゥランド(Wituland、スワヒリランド Swahililand とも)の権益をイギリスに譲与しイギリス領東アフリカの一部とすることを認めた。その場所はイギリスにとって決定的なもので、ビクトリア湖に至る鉄道を建設するために必要だった。また、イギリスがザンジバルに関して取る行動について、ドイツは干渉しないことを約束した。

その後、イギリスはザンジバル・スルタン国の保護国化を宣言し、1896年イギリス・ザンジバル戦争によって、以後実効支配した。

そのうえ、条約はドイツが関心を持っていたドイツ領南西アフリカ(現在のナミビア)北東のカプリビ回廊の権益を確定させ、ドイツ領トーゴラントイギリス領ゴールドコースト植民地、およびドイツ領カメルーンイギリス領ナイジェリアの国境問題を解決した。

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