親英反露
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「親英反露」の解説
1890年6月17日に切れる独露再保障条約の更新をロシア帝国は求めていたが(この要請はビスマルク退任前に行われていた)、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これは彼がロシアとの関係よりオーストリアやルーマニアとの関係を重視したためである。またロシアと対立するイギリスを取り込む意図もあった。これによりロシアとフランスが接近をはじめ、1894年には露仏同盟が締結されてしまった。当時のフランスは普仏戦争以来、エルザス=ロートリンゲン(フランス名アルザス=ロレーヌ)の奪還を狙って反独姿勢をますます強めていた(反ユダヤ主義を背景にしたドレフュス事件の発生にも象徴されるようにフランスでは産業化に伴って排外主義・人種差別主義が高揚していた)。露仏同盟はドイツを敵視したものであると同時にイギリスをも敵視したものであった。フランスはアフリカにおいて、ロシアはアジアにおいてイギリスと植民地争奪戦を繰り広げていたからである。 1890年7月1日にはドイツはイギリスとの間にヘルゴランド=ザンジバル条約を締結した。これを機にイギリスを三国同盟側に引き込もうという意図もあったが、それはイギリス側に拒否された。とはいえ親英反露はこの後しばらくドイツの外交政策の基本方針となる。英露の対立関係の中でどちらか一方にだけ与さないというビスマルク時代の外交方針はここに破棄されたのである。イギリスとドイツの関係は基本的には1897年頃までは悪くなかった。 しかしヴィルヘルム2世は1894年11月にロシア皇帝(ツァーリ)に即位したニコライ2世とは個人的に親しくしていた。二人は英語で手紙を送りあう親密な間柄だった。
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