親蔣派への転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:49 UTC 版)
孫文の側近を長年つとめた呉鉄城だが、内心は聯共の三大政策に反対であったとされる。翌1925年(民国14年)3月に孫が逝去し、さらに8月、国民党左派の廖仲愷が暗殺される。このとき、呉は広州市公安局長の地位にあったにもかかわらずこれを防げず、しかも事前に廖に対する警備を薄くする指示を出していたことから、暗殺の主犯と疑われることになった。蔣介石は呉鉄城を公安局長から罷免すると、1926年5月にはこれを逮捕、収監してしまう。もっともこの蔣の行動は、国民党最高指導部における権力闘争として、広東派の汪兆銘(汪精衛)・胡漢民一派粛清が狙いとされている。同年10月、ようやく呉は釈放された。 しかし、1927年(民国16年)4月12日に上海クーデター(四・一二政変)が勃発すると、呉鉄城は直ちに蔣介石支持を表明し、武漢国民政府の汪兆銘・孫科らにも合流を呼びかけた。同年6月、呉は広東省建設庁庁長に起用される。翌年秋、東北に派遣され、張学良に易幟を働きかけた。1929年(民国18年)、国民党中央執行委員に選出される。翌年5月、中原大戦が勃発すると、蔣介石に命じられて張の説得工作を担当し、これを蔣派に参戦させた。これにより呉は蔣の信任を得たという。1931年(民国20年)の寧粤分裂でも、西南派(粤派)の孫科らとの関係の深さにもかかわらず、呉は蔣派にとどまり、寧粤合流のために活動した(同年12月、満州事変の勃発のため、両派の大同団結がなった)。
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