保護国化
保護国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:51 UTC 版)
「ザンジバル・スルターン国」の記事における「保護国化」の解説
ザンジバル・スルターン国は、ザンジュとして知られるスワヒリ海岸の一部を勢力下に置いていた。交易路は大陸内部まで伸び、コンゴ川河畔のキンドゥまで達していた。しかし、1884年にドイツ植民協会によって現地の族長がドイツの保護下に組み入れられ、バルガシュ・ビン・サイードは直ちに抗議した。同時期にベルリン会議が開催されアフリカ分割が進行、さらにこの地域の植民地化を目指すドイツにより1885年にはドイツ東アフリカ会社が設立されていた。 1886年、ドイツとイギリスはアフリカ大湖沼への拡大について秘密裏に協議を行った。その影響範囲は従前の合意に基づき、イギリスが東アフリカ保護国(ケニア)を、ドイツが後のタンザニアを得るものであった。両国はザンジバルから沿岸部を租借し、交易所と居留地を設立していた。1888年の帝国イギリス東アフリカ会社によるモンバサ統治を皮切りに、数年かけて沿岸部のザンジバル領はヨーロッパの帝国による統治下となった。 同年ドイツ東アフリカ会社は、先に保護下に組み入れた地域を公式に統治することとなった。この決定はアブシリの反乱と呼ばれる現地の蜂起を招いたが、イギリス、ドイツ両国の海上作戦により鎮圧され、ザンジバルのアフリカ大陸への影響力が失われる先駆けとなった。 1890年、イギリスとドイツによってヘルゴランド=ザンジバル条約が調印され、ザンジバルはイギリスの保護国となることが定められた。 「イギリス・ザンジバル戦争」も参照
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