英国の保護国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 05:37 UTC 版)
1882年:イギリスは本格的にエジプトに侵攻・占領。 1883年:エジプト鉄道は機械技師主任のフランシス・トレヴィシックの甥のフレデリック・ハーヴェイ・トレヴィシックを指名した。トレヴィシックは246馬力の異質なエンジンを見出した。これはイングランドやスコットランド、フランス、アメリカの数多くの技師によって造られたものであった。この動力や素材の標準化の失敗は動力維持と鉄道管理全体を複雑にした。 1887年:この年までにトレヴィシックは85もの機関車やボイラー、シリンダーを一新することに成功。 1888年:これらの開発によってエジプト鉄道の運営は停滞してしまう。しかしそれによって運営はより整理された。同年までにエジプト鉄道は路線網を広げられる状態まで改善した。 1889年:この年以降、彼は4種類の機関車を1種類に統一。これによって維持費用を下げられると彼は考えた。 1890年:カイロとトゥラの間に第二路線が開通。 1891年:北方でダマンフールとディスーク間が開通。 1892年:5月15日にはナイル川にインババ橋が架けられ、カイロと西岸の南の路線を繋いだ。ここではグスタフ・エッフェルが土木技師を務めた。同年カイロの主要駅であるミスル駅が改築された。また、南路線はアシュートからギルガまで延長。 1896年:ギルガからナグ・ハッマディまで開通。同年シビーン・コームからミヌフ、アシュムまで開通。これにより、ナイルデルタを横断するタルハからディムヤートまでの路線がビヤラに到達。 1897年:ナグ・ハッマディからケナまで開通。 1898年:ルクソールとアスワンまで開通。鉄道完成にともない、同年第一アスワンダムとアシュートダムの工事が始まった。この計画の主要部分は1890年に政府によって作られており、エジプトの灌漑農業や輸出能力、ヨーロッパの債権者への支払い能力の向上を目指していた。同年までにはナイルデルタ線はカフル・エル・シェイクまで達し、ディムヤートからアレクサンドリアに直行出来るようになった。 1904年:重要な延長であるスエズ運河西岸のニフィシャからイスマイリアの間が開通し、アル・カンタラーの西とポートサイドが結ばれた。その後路線網の拡大は減速した。 1911年:カイロ北方線が開通した。
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