スワヒリ海岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:48 UTC 版)
「イブン・バットゥータ」の記事における「スワヒリ海岸」の解説
イブン・バットゥータは船で、当時ビラド・アル=ザンジュ(ザンジュの地)と呼ばれていたスワヒリ海岸(英語版)を南下した。夜通し船に揺られ、島にある都市モンバサに上陸する。当時まだ比較的小さな街であったが、翌15世紀には重要な都市となる。さらに海岸沿いの旅をつづけ、島にある都市キルワ(現在のタンザニア領)を訪れる。キルワは金の貿易の要衝となっていた。彼はこの都市を「最も美しく設計された街のひとつ、すべての建物は木で作られ、ディース葦(dīs reed)で屋根が葺かれている」と記録している。 イブン・バットゥータはキルワ王国に1330年に着いたと記録を残している。そしてそのスルターン、アブー・ムワーヒブ・ハサン・ブン・スライマーン(英語版)の謙虚で敬虔な人柄を好意的に描写している。スルターンは名高い建国者アリー・ブン・ハサン・シーラーズィー(英語版)の子孫である。他にもスルタンの威光が北はマリンディから南はイニャンバネ市に及んでいること、整然と整えられた街並みに心を動かされたこと、それこそがキルワの繁栄の秘訣であろうという彼の考えなど、踏み込んだ感想をのこしている。コーラル・ラグ(英語版)(サンゴ由来の石灰岩)で造られた宮殿と拡張されたキルワのグレート・モスク(英語版)の歴史はこの時代から始まっている。モンスーンの向きが変わるのにあわせて、イブン・バットゥータはアラビア半島へと戻る。まずはオマーン、そしてホルムズ海峡を通過し、1330年(あるいは1332年)のハッジにメッカへ戻った。
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