再独立の達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 05:54 UTC 版)
ジョアン4世の治世はスペインとの戦争に備えた軍事力の増強、軍費の捻出に費やされた。ジョアン4世は王権の行使に慎重な立場をとり、政務の大部分を貴族と高級官僚に委ね、自身は彼らの監督役となった。当初国王の権力は顧問会議によって制限を受けていたが、やがて顧問会議の力は弱まり、国王から信任を受けた少数の秘書官や寵臣が国政を掌握するようになった。ブラガンサ王朝成立の前後にポルトガルはインド洋世界の植民地の大部分を喪失し、1641年にマラッカ、1644年・1656年にセイロン、1658年にキロン、1660年にネガパタンが陥落した。アラビア半島の沿岸部ではソハールなどの拠点がオマーンで勃興したヤアーリバ朝の攻撃を受け、1650年のマスカットの陥落によってオマーンからポルトガル勢力は駆逐された。東アフリカの拠点であるモンバサでは1631年にポルトガルの支配に反発した住民が蜂起を起こし、反乱は他のスワヒリ都市に飛び火するが、長らくの間決着はつかなかった。オマーンの艦隊がスワヒリ都市の要請を受けて出撃し、戦争に敗れたポルトガルは1698年にスワヒリ海岸から撤退し、植民地支配の拠点をモザンビークに移した。 ポルトガルは再独立を宣言したものの、大部分の貴族と高位聖職者、異端審問所はスペインを支持していた。ジョアン4世はスペインと敵対する勢力に援助を仰ごうと試みるが、イギリス、オランダはポルトガルと対立し、フランスからは支援を得られなかった。教皇庁とポルトガルの関係は良好とは言い難く、教皇庁はスペインからの分離独立の嘆願を拒み続けていた。ポルトガルからの空白になっていた司教区の司教確認の要請は退けられ、再独立が達成された時点で本国と植民地に存在する28の司教区のうち20が司教不在の状況に置かれていた。ジョアン4世はブラジルとアンゴラの支配権の回復には成功したが、スペインの同意を得ない独立宣言をヨーロッパ諸国に承認させることができないまま没した。 ジョアン4世の死後、摂政となった王妃ルイサはイギリスに支援を求める。1661年にポルトガルとイギリスは友好条約を締結し、王女カタリーナとイングランド王太子チャールズの結婚が取り決められたが、その代償としてポルトガルは2,000,000クルザードを支払い、タンジール(タンジェ)とボンベイ(ムンバイ)をイギリスに割譲しなければならなかった。イギリスの援助はポルトガルの再独立を支える原動力の一つとなるが、イギリスは援助の見返りとしてポルトガル本国と植民地での商業上の特権を獲得し、ポルトガルはイギリスに対して従属的な立場をとるようになる。 1662年にイギリスに接近する政策に反発する一派のクーデターによってルイサは失脚し、国王アフォンソ6世に代わってカステロ・メリョール伯ルイスが国政を動かした。1665年のモンテス・クラロスの戦いでポルトガルはスペインに決定的な勝利を収めるが、カステロ・メリョール伯は王弟ペドロを擁するカダヴァル公爵の一派に敗れて失脚する。1668年にスペインはブラガンサ王朝の正統性を認めてポルトガルは再独立を達成し、セウタを除く植民地が復帰する。1683年にアゾレス諸島に流されたアフォンソ6世が没すると、摂政を務めていたペドロが王位を継承した。
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