再独立から業界最大手に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 18:24 UTC 版)
「リーマン・ブラザーズ」の記事における「再独立から業界最大手に」の解説
1993年に就任した新CEOハーベイ・ゴルブのもと、アメリカン・エキスプレスは事業の集中と選択を進め、リテール分野と資産管理業務をプライメリカに売却。1994年、さらにプライメリカが同事業を分離し、リーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)として株式をニューヨーク証券取引所に再上場させた。 この再上場のあともたびたび買収の対象として噂されたが、リーマン・ブラザーズはこれを重ねて否定した。実際、業績の推移は順調で、収益を拡大させていた。しかし、投資銀行業界の中では比較的弱体であったことへの危機感は強く、1999年には事態の打開策として、資金が焦げつく危険性の高いサブプライムローンの証券化をいち早く推進するというハイリスク・ハイリターンの方針を打ち出した。これがアメリカの低金利政策による住宅バブルの到来と軌を一にし、業績の拡大に成功する。 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件での世界貿易センタービル崩壊により、隣接する世界金融センタービルに入居していたリーマン・ブラザーズも影響を受ける。社員1名が死亡し、瓦礫でビルは使用不能となった。リーマン・ブラザーズは事件後48時間で、インターネットの不動産サイトでニュージャージー州の施設を購入。間に合わせのトレーディングルームが設置され、6,500名の社員が移動した。9月17日にニューヨーク証券取引所が再開されると、リーマン・ブラザーズはすぐに取引に復帰し、損失を最小限に抑えた。 その後、数か月をかけて拠点をニューヨークに復帰させるも、いまだ臨時であり、40以上の別々の建物に分かれて業務を行っていた。特に、投資銀行部門はシェラトン・マンハッタン・ホテルに入居し、1階のラウンジ、レストランから665の全客室までを改造して利用していた。フレックスタイム制の導入やVPNの活用など、新しい試みも見られた。 翌10月にはマンハッタンのミッドタウン(745 Seventh Avenue, New York)にある竣工まもない32階建てのビルを、ライバルのモルガン・スタンレーから7億ドルで買収。モルガン・スタンレーは2ブロック離れたブロードウェイに移転した。リーマン・ブラザーズが以前の世界金融センターやロウアー・マンハッタンに戻らなかったことには批判もあったが、リーマン・ブラザーズ自身は、ニューヨーク市に拠点を残すことに腐心していた。 新拠点は、同社にとって理想的な環境であり、モルガン・スタンレー側も売却先を積極的に求めていた。また、2002年5月の世界金融センター再開まで待っていられなかったということもある。世界金融センターに残った企業としては、ドイツ銀行、ゴールドマン・サックス、メリルリンチなどがある。 アジアに対する積極的な投資も特徴であった。日本との関係で有名なのは、古くは、リーマン・ブラザーズに統合される前のクーン・ローブが、日露戦争の日本軍戦費調達のため、大日本帝国の戦時国債を引き受けたことである。近年では、ライブドアへの投資(転換社債型新株予約権付社債)である。日本でのオフィスは、東京都港区六本木にある六本木ヒルズ森タワーの29 - 32階にあり、アジア太平洋地域の統括本部でもあった。 2005年には、アジア(特に中国市場)の高成長と住宅バブルの昂進に後押しされ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチといった強豪を抑えて投資銀行における最大手に躍進することとなった。
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