スペインとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/20 21:20 UTC 版)
「ウィリアム・ブラウン (提督)」の記事における「スペインとの戦争」の解説
スペイン船団はブラウンのスクーナーを破壊し、自分たちの海岸線をスペインの略奪船から防衛しようというアルゼンチンの試みは無に帰した。この事件の結果、アルゼンチンは海岸線防衛と通商保護のために船団を派遣することを決定し、そのためにブラウンを海軍中佐として軍務につけ、その艦隊の司令長官に任命した。これにはカナダ商船船員として登記されていたベンジャミン・フランクリン・シーヴァー(Benjamin Franklin Seaver)から異議が申し立てられたが、後にシーヴァーは異議を撤回した。これはブラウンがかつて強制徴募された経験があることが広く知られるようになったため、シーヴァーは彼が艦隊の指揮を執ることに賛成の方に決意を覆したのだと信じられている。シーヴァーはアメリカ生まれだったが、ジェファーソン大統領が通商禁止法をうちだした後、国際商取引に課せられた二重課税を避けるために多くの商船船員と同じようにカナダ人になっていた。 ラプラタ川はこれらの自由企業船長に新しい好機を提示した。穀物の輸送線を大陸の北部に広げておくことは重要事だったが、スペイン人がその途中で邪魔をしていた。ブラウンの副司令官となったベンジャミン・フランクリン・シーヴァー艦長は、封鎖を解放して上流への艦隊の進路を確保するため、スペイン艦隊への最初の攻撃を指揮した。シーヴァーはこの戦闘による最初の犠牲者ともなった。友であり同志でもあった人物の死の報せを聞いたブラウンはスペイン艦隊への総攻撃を行ったが、この経験豊富な士官を戦闘の緒戦で失ったことによりアルゼンチン軍の士気は低かった。 1814年3月10日、「フリエタ(Julieta)」・「トルトゥガ(Tortuga)」・「フォルトゥナ(Fortuna)」・フェラッカの「サンルイス(San Luis)」と合流した「エルクレス(Hercules)」は、ハシント・デ・ロマラテ艦長(Captain Jacinto de Romarate)に率いられた強力なスペイン艦隊に対峙した。スペインの無敵艦隊は、6隻の軍艦、ブリッグ、砲艦と、4門の地上砲台からなっていた。エルクレスが座礁した後、激烈な戦いが繰り広げられた。アメリカ生まれの士官で「フリエタ」の司令官だったベンジャミン・フランクリン・シーヴァーは戦死した。「エルクレス」は3月12日の午前10時まで自分を護りきった。この戦闘の結果、イライアス・スミス司令官(Commander Elias Smith)、ロバート・スタシー大尉(Lieutenant Robert Stacy)、そして45人の水兵がぶどう弾によって死亡した。およそ50名が負傷し、軍医のバーナード・キャンベル(Bernard Campbell)は対応に追われた。旗艦は少なくとも82発の砲撃を受け、戦場で修理を受けた。喫水線下は鉛板がとりつけられ、船体は革とタールで覆われた。これ以後、この艦は「黒いフリゲート」と渾名されることとなる。イギリス生まれのリチャード・バクスターが新しい司令官に任命された。1814年3月17日、ブラウンは「フリエタ」「セピル(Zephir)」と共にマルティン・ガルシア島を攻撃した。「エルクレス」はスペイン艦「エスペランサ(Esperanza)」「カルメン(Carmen)」と交戦を開始した。 1814年4月20日、モンテビデオはアルゼンチン軍によって封鎖された。その後は1814年5月8日に戦闘が再開されるまでは大きな交戦はなかったが、その戦闘も海上の状況が悪かったため全力ではなかった。 ブラウンは装備も不充分な7隻からなる自分たちの小艦隊で強力無比なスペイン艦隊に攻撃をかけることを決意した。1814年3月8日、ブラウンは自分の艦隊を出航させ48時間以内に激しい戦闘に入った。海上と陸上の戦力はマルティン・ガルシア島に展開した。マルティン・ガルシア島はブエノスアイレスから32km沖合にある要塞化された島で、パラナ川とウルグアイ川への交通を支配する「ラプラタ川のジブラルタル」として知られていた。ブラウンは島を占拠することに失敗し、彼の旗艦「エルクレス」は激しい攻撃を受け陸地に乗り上げてしまった。アルゼンチン軍は陸と海から攻撃を続け、3月14日、激烈な争奪戦の後マルティン・ガルシア島の占拠に成功した。スペイン軍司令官は、3隻の武装商船の加入で海軍力が強化されたブラウンの追撃を受けながら、艦隊をモンテビデオに引き上げた。 封鎖を目的としたスペインの艦隊は今やブラウンとその艦隊によって逆に封鎖されてしまった。モンテビデオは飢餓の危機に直面した。ブラウンは退却を装い、5月14日にスペイン軍を砲台から引き離すことに成功した。そのさらに2日後の5月16日に戦闘が開始され、その戦いでブラウンは砲弾により片足を粉砕された。それにもめげずに、彼は「エルクレス」の甲板に横たわりながら命令を出し、直接指揮を執ることを続けた。スペイン艦隊は恐慌をきたして港へ避難しようとしたが、3隻が拿捕された。この交戦の直接的結果として、ラプラタ川はスペインの支配から解放され、モンテビデオはアルゼンチンの手に落ちた。 戦いはアルゼンチンが勝利を宣言したあとも続いた。イポリト・ド・ボシャール(Hippolyte de Bouchard)の協力を受け、ブラウンはアルゼンチン海域だけでなく両アメリカ大陸西海岸や太平洋のいたるところでもスペイン船舶を追い回し、彼の艦隊の船主たちは恐ろしく心配させられた。ある島に乗り上げ、熱病にうなされているブラウンの元へ、ブラウンはアルゼンチンへ帰国後軍事法廷にかけられることになっている、という報せが届いた。彼は一旦イギリスに戻り、法的・政治的戦いを味方の協力と共に勝ち抜いた。彼がアルゼンチンに戻ると「エルクレス」を贈呈された。ウィリアム・ブラウンはその後農業を行い家族との満ち足りた幸せな生活を14年にわたって過ごした。
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