スペインとの戦争とブルターニュ平定(1595年 - 1598年)
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1594年の終わりには幾分かのカトリック同盟のメンバーが依然として国中で活動していたが、全てはスペインの援助頼みだった。そのため、アンリ4世は1595年1月にスペインに宣戦布告を行った。これは、カトリックに対してはスペインが宗教をフランス侵略の口実に使っていると示すため、プロテスタントには国王はカトリックに改宗したが決してスペインの傀儡ではないと示すためであった。また一方で、スペインとの戦争により領土を獲得することも望んではいた。戦いは主にカトリック同盟を標的にして、フォンテーヌ=フランセーズの戦いなどが行われたが、春からスペインが集中攻勢をかけ、4月にカレーとアルドが占領される。1597年3月に国王軍はアミアンを包囲し、9月にこれを降伏させた。これより前の1596年1月にマイエンヌ公は降伏し、他のほとんどの地方もアンリ4世に帰順し、カトリック同盟は瓦解していた。 アミアンを落とすと、アンリ4世の関心はブルターニュへ向き、1598年初めにメルクール公を標的に進軍し、3月20日にアンジェで降伏を受け入れた。その後、メルクール公はハンガリーへ亡命し、彼の相続人である娘はアンリ4世の非嫡出子ヴァンドーム公セザールと結婚している。 アンリ4世はポンポンヌ・ド・ベリエーヴルとブリュラール・ド・シルリーを和平交渉のためスペインへ派遣した。ナント勅令の後の1598年5月にヴェルヴァン条約が結ばれ、戦争は正式に終わった。
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