スペインとフランスの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 08:08 UTC 版)
「ルシヨン」の記事における「スペインとフランスの対立」の解説
1496年から1498年まで続いたスペイン=フランス戦争の間、人々は等しくスペインの駐留軍とフランスの侵入者から被害を受けた。しかしカスティーリャ人がすぐに神聖ローマ皇帝カール5世の栄光を分かつ誇りをぬぐい去ったのを、カタルーニャは嫌った。1542年、ペルピニャンはフランスのドーファン、アンリ(のちのアンリ2世)によって包囲された。この時防衛軍を指揮したのはアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドである。住民らはスペイン王を支持し、『最も忠義を持つ都市』の異名を持つに至った。 1641年、カタルーニャ人らがスペイン王国に対し反乱を起こした(収穫人戦争)。ルイ13世は反乱派について対立に介入した。長引いた戦争の後、ピレネー条約が1659年に結ばれ、ルシヨンとサルダーニャの一部がフランス王国へ帰することになった。これがフランスの州、ルシヨンである。次の50年間、ルイ14世による、政治への専念を守るのと、カタルーニャ人の文化的アイデンティティーを改めることに対する努力が費やされた。彼は前者については達成したが、後者には失敗した。州都ペルピニャンの外では、ルシヨンは外観においても文化においても疑いなくカタルーニャのままであった。しかし19世紀終わりに工業化が始まると、カタルーニャのアイデンティティーはフランス人のそれに取って代わり始めた。 フランス革命の際、アンシャン・レジーム時代の名残であるルシヨン州は廃止され、新たにピレネー=オリアンタル県が設置された。この県はフェノルダ(フランス語でフェヌイレード、オック語地域)を加えたもので、大まかに旧ルシヨン州と符合するものだった。旧名ルシヨンは、ラングドック=ルシヨン地域圏として21世紀まで残っていた。
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