スペインと東南アジアのイスラム王朝との接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:16 UTC 版)
「カスティーリャ戦争」の記事における「スペインと東南アジアのイスラム王朝との接触」の解説
「マニラの戦い (1570年)」も参照 1485年から1521年にかけて、スルタン・ボルキア率いるブルネイ帝国は、イスラム化が未完全だったトンド王国に対抗するブルネイの傀儡国としてコタ・セルドン(またはマニラ王国)を設立した。イスラム教への改宗は、現在のマレーシアやインドネシアからの商人や東南アジアでの布教活動がフィリピンに到達することによって、さらに強化された。 フィリピンには統一国家が存在しなかったため、ブルネイ帝国の影響にもかかわらず、スペインの植民地化は推進された。1571年、スペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピがイスラム教徒の支配するマニラを攻撃、マニラはフィリピン諸島の首都となり、貿易と宣教の拠点となった。ビサヤ人(マジャアスのケダトゥアンやセブのラジャナート)は、スペイン人が来る前はスールー諸島のスルタンやマニラの王国と交戦していたが、ブルネイのスルタンと戦うためにスペインと同盟を締結した。 スペインは、8世紀以降、ウマイヤ朝カリフの下でイスラム教徒に侵略されていたスペインを再征服し、再びキリスト教化するための700年にわたる戦争を終えたばかりだった。奪われた領土の奪還の過程は、レコンキスタとして知られている。かつてスペインを侵略したイスラム教徒に対するスペイン人の憎悪は、同じイスラム教徒であるブルネイ人に対するカスティーリャ戦争に駆り立てた。この戦争はまた、フィリピンでのスールーのスルタンやマギンダナオのスルタンに対するスペイン・モロ戦争(1565–1898年)の発端となった。 1576年、メキシコ・マニラのスペイン総督フランシスコ・デ・サンデがフィリピンに上陸した。デ・サンデは隣国のブルネイに公式な使節団を送り、スルタン・サイフル・リジャールに面会させた。彼はスルタンにブルネイとの良好な関係を望んでいることを説明し、ブルネイにキリスト教を広める許可を求めた。同時に、ブルネイによるフィリピンでのイスラム教の布教をやめるよう要求した。スルタン・サイフル・リジャールはこの条件に同意せず、またフィリピンをダー・アル・イスラムの一部とみなして、フィリピンでの宣教に反対する姿勢を示した。
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