スペインでの生活(1922~1928年)
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「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「スペインでの生活(1922~1928年)」の解説
母がハプスブルク家の出身であったスペイン国王アルフォンソ13世は、ヨーロッパ王室のなかでハプスブルク家を寛大に扱ってくれた唯一の君主であった。アルフォンソ13世は、カール1世が死去した日の晩に、どういうわけかハプスブルク家の子供たちの面倒を見なければという義務感に突如とりつかれたと語っている。連合国の大使会議はハプスブルク家がマデイラ島を出ることを阻止しようとしたが、アルフォンソ13世は「諸君らがいま彼らの出航を阻止するならば、彼らを迎えに行くために軍艦を送り込むぞ!」と言ってオットーらをスペインに迎え入れた。 アルフォンソ13世はエル・パルド宮殿(スペイン語版)を用意してくれた。しかしこの地は過酷な気候であることから、1922年8月18日、一家は同国の小さな漁村レケイティオにある、イサベル2世の夏の離宮であったウリバーレン宮殿に移った。地元の公共団体が家賃を肩代わりしてくれ、さらに地元住民が生活必需品を融通してくれるなど、困窮したハプスブルク家は当地で人々に温かく支えられた。 やがて所有者が自分で住むことになったため、同年冬にはウリバーレン宮殿から引っ越さざるをえなくなった。スペイン北部の海沿いにある保養地サン・セバスティアンで、シーズンオフの間だけ過ごすことをホテルに認められてここに住むようになった。オーストリアとハンガリーの貴族たちが宿泊費用を負担してくれたが、彼らに多額の出費をさせることになって申し訳ないと母ツィタが思ったことから、一家は再びレケイティオの地に引っ越した。1923年6月6日にレケイティオに戻ってきた一家が目にしたのは、「ツィタ」「オットー」という横断幕が掲げられた家々と、打ち上げ花火による人々の歓迎であった。結局ウリバーレン宮殿に戻った一家は、それから1929年までここを居住地とした。 レケイティオに腰を落ち着けたオットーたちは、とにかく勉学に励まなければならなかった。スペイン国王アルフォンソ13世はオットーを首都マドリードの学校に通わせようと申し出てきたが、ツィタはこれを丁重に断った。「皇帝および王」であるオットーは、ツィタが選び抜いた教師陣によって、オーストリアやハンガリーの非常に高度な教育を施されることになった。とりわけブラツォビッチ教授の影響を大きく受け、オットーはドナウ川周辺の諸民族を愛するようになった。 のちにオットーは、「朝6時から8時まで自主学習、30分の休憩のあとに12時まで授業、午後2時から4時まで授業、5時から7時まで自主学習という日課で、その他の時間は妹のアーデルハイトや、他の弟たちと過ごした。」と当時を回想している。オットーはかつてフランツ・ヨーゼフ1世が少年時代に受けたのと同様に、多くの言語を学ばせられることになった。それは、オットーが数多の国々(旧ハプスブルク君主国)を統治する日がいつか来ることを期待してのことであった。この教育の甲斐あってオットーは、ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。
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