スペインでの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 17:43 UTC 版)
新国王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)は当初、フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親フランス派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたりリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。 独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、新国王フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効としたために、カルリスタ戦争で激突することになった。フェルナンド7世は絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、最後の悪行は、愛娘のイサベル2世のために王位継承法(当時のスペインは男子にしか王位継承権は与えられなかった)を変えたことであり、従って、旧法での王位継承者である王の弟ドン・カルロスの支持者との内戦の世紀が始まった。半島戦争により外国の抑圧的支配から逃れたはずのスペインは、それ以上の混乱、荒廃を自国民同士の争いによって引き起こし、スペインは百年も後退してしまう。しかし近代化に対するスペイン人の渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。 自由主義議会は1812年3月19日制定のスペイン1812年憲法を可決した。それらは後に、王によって、破棄された。 一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド王に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。 また、この戦争中フランス軍はカトリック教会の大量の財産を多く略奪した。美術品はフランスに送られ、教会と修道院の建物は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることとなった。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。
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