夏の離宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 03:43 UTC 版)
マリア・テレジア以降のハプスブルク家(=ハプスブルク=ロートリンゲン家)は、シェーンブルンを夏の離宮として、好んで逗留した。特によく利用したのは、マリア・テレジアとフランツ2世であった。1762年10月13日、鏡の間において、マリア・テレジアの前で御前演奏を行ったモーツァルトは、退出するとき、すべって転んだ。これをマリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)が助け起こしたところ、モーツァルトが「あなたをお嫁さんにしてあげる」というような趣旨の発言をしたと伝えられる。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、毎年春秋をここで過ごし、晩年には王宮ではなくこちらに常住するようになった。1916年11月21日、フランツ・ヨーゼフ1世はこの宮殿のベッドの上で崩御した。 1918年11月11日、「青磁の間」において最後のオーストリア皇帝カール1世が「国事行為の断念」を宣言した。カール1世の退去に伴い、オーストリア共和国政府の所有となった。
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