ウォルポール政権下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 01:44 UTC 版)
「チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)」の記事における「ウォルポール政権下で」の解説
1720年の南海泡沫事件で政権は動揺し、翌1721年にスタンホープが急死、サンダーランドも失脚した。タウンゼンドはスタンホープの後任として1721年2月に北方担当国務大臣に就任した。さらに4月には盟友で義兄のウォルポールがサンダーランドに代わって第一大蔵卿に就任し、事実上の首相となった。 1724年にサンダーランドの流れをくむ第2代カートレット男爵ジョン・カートレットが失脚すると代わってウォルポール政権の外交政策を担当するようになった。 外交政策では反ハプスブルク家政策を通し、四国同盟戦争が終わった1721年にフランス・スペインと同盟を結びオーストリアを牽制したが、1725年にスペインとオーストリアがウィーン条約を結ぶとプロイセン・フランスとハノーファー条約を締結、1727年にスペインがジブラルタルを包囲して小規模な戦争が発生したが、平和政策を取るウォルポールが次第に外交に関わるようになると外交を巡って対立、1729年にセビリア条約でスペインとの戦争が終結すると不満を表して翌1730年に辞任した。ウォルポールは1731年に神聖ローマ皇帝カール6世の国事詔書を承認してオーストリアとウィーン条約を結び、以後はオーストリアとの協調関係がイギリスの基本政策となる。
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