ウォルポール退陣後の政界で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 09:32 UTC 版)
「ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)」の記事における「ウォルポール退陣後の政界で」の解説
1741年の総選挙で与党ウォルポール派ホイッグの議席が大幅に減り、1742年2月にウォルポールは退陣した。カートレットは反ウォルポール派から待望され、後継の初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン内閣に北部担当国務大臣として入閣し、同内閣の主導的地位に就いた。ただし当時の国王の閣僚人事権はいまだ大きかったので、ウォルポール派のペラム兄弟(初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスとヘンリー・ペラム)も国王ジョージ2世の意向で政権に留まった。 同君連合国ハノーファー選帝侯領の防衛を重視するカートレットは、1743年中にオーストリア継承戦争の指揮を執るために大陸へ向かったジョージ2世に随伴して本国を不在にした。その間の1743年7月に首相ウィルミントン伯が死去したが、カートレット不在のため、後任にはヘンリー・ペラムが就任した。カートレットは秋に帰国したが、その時までにはペラム兄弟は政権内で確固たる地位を確立しており、カートレットの孤立は深まった。カートレットのハノーファー優先策は政府内ではペラム兄弟から、議会では大ピットら反政府派ホイッグから批判に晒された。 1744年10月18日には母の死により第2代グランヴィル伯爵位を継承した。同年11月の議会招集直前、ペラムはグランヴィル伯の更迭をジョージ2世に上奏し、渋っていた国王に強引に解任を認めさせた。しかしグランヴィルは親ハノーファー派として国王から厚く信任されており、解任後も国王から助言を求められつづけた。国王はグランヴィル内閣を発足させようと画策もしたが、議会の支持が得られずに失敗に終わっている。 それでも国王の強い寵愛で1749年にはガーター勲章を受勲し、1751年から死去まで5代の内閣において枢密院議長を務めた。1763年1月2日にバースで死去、72歳であった。爵位は長男のロバート・カートレットが継承した。
※この「ウォルポール退陣後の政界で」の解説は、「ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)」の解説の一部です。
「ウォルポール退陣後の政界で」を含む「ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)」の記事については、「ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)」の概要を参照ください。
- ウォルポール退陣後の政界でのページへのリンク