四国同盟戦争
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四国同盟戦争[2][3](しこくどうめいせんそう、英語: War of the Quadruple Alliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4か国)およびサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間で行われた戦争。
注釈
- ^ エリザベッタは結婚後、前王妃マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアの女官長であったマリー・アンヌ・ド・ラ・トレモイユを始め、ルイ14世と関係が深かったフランス人をスペインから追放したため、スペインに対するフランスの影響力は減退した。この流れはルイ14世の死によって決定的なものとなった。またフェリペ5世はフランスへの郷愁が強くフランス王位への未練を捨てる事ができなかった。しかしこれはスペインとフランスが合体する可能性を意味しており、周辺諸国に警戒心を抱かせた[6][14]。
出典
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- ^ Albareda Salvadó 2010, p. 454.
- ^ Satsuma 2013, p. 200.
- 1 四国同盟戦争とは
- 2 四国同盟戦争の概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 和平
四国同盟戦争
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「ジャン=フランソワ=ニコラ・ド・ベット (第3代レーデ侯爵)」の記事における「四国同盟戦争」の解説
1717年、レーデ侯爵は軍勢3万を率いてシチリア島に遠征、占領に成功した。このとき、シチリア島はフェリペ5世のほか、神聖ローマ皇帝カール6世、サヴォイア公兼シチリア王ヴィットーリオ・アメデーオ2世が請求していたため、シチリア島にはレーデ侯爵率いるスペイン軍、クロード・フロリモン・ド・メルシー伯爵率いるハプスブルク軍、アンニバレ・マッフェイ(イタリア語版)伯爵率いるサヴォイア軍が同時に存在することとなった。レーデ侯爵はワロン人衛兵の助力も借りて、カステッロ・ア・マレ(英語版)、メッシーナなどを相次いで占領した後、1719年のフランカヴィッラの戦いでハプスブルク軍を撃破した。レーデ侯爵はその後も善戦したが、結局1720年のハーグ条約でシチリア王国がカール6世に帰属し、その死後はスペイン王が継承すると定められた。
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