戦乱と隆盛、経済政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 03:09 UTC 版)
「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「戦乱と隆盛、経済政策」の解説
詳細は「ラーコーツィの独立戦争」、「墺土戦争 (1716年-1718年)」、および「四国同盟戦争」を参照 皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーでのラーコーツィ・フェレンツ2世の叛乱を終息させ、南ネーデルラントからミラノ公国などに勢力を拡大する。 また四国同盟戦争でサヴォイア公国との間でシチリアとサルデーニャの交換が成立し、その際サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世にサルデーニャ王の称号を認めた。 さらに1716年、オスマン帝国との間に墺土戦争が起こるとバルカン半島にプリンツ・オイゲンを派遣してオスマン帝国スルタン・アフメト3世と戦い勝利、1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国からベオグラードを奪う。 こうした東西両方面への領土拡張の結果、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築き上げた。さらに、カール6世は重商主義政策をとり、1718年に東西インド貿易のためにオーステンデ会社(英語版)を、翌1719年にはドナウ川やアドリア海での貿易のために帝立オリエント会社(英語版)をそれぞれ設立させた。貿易の独占を通じて、東方の貴族たちの領土経営を支配し、シュレジエンからベーメンにまたがる麻織物工業に対しては問屋制資本下での統制を試みた。しかし、オーストリアの問屋制資本は外国資本に従属しており、ベーメンの麻織物工業は英国に、水銀や銅はオランダの支配下にあった。さらに英国にはシュレジエンを、ジェノヴァにはベーメンの地租をそれぞれ抵当にして、資金を工面していた。経済的に厳しい状況であり、傭兵軍の維持が困難になっていたため、自国の農民を動員せざるを得なくなっていた。 スペイン領イタリアの奪回を夢見るスペインとの対立は続き、フェリペ5世はサルデーニャとシチリアを占領する強硬策に出たため、1718年に勃発した四国同盟戦争に巻き込まれた。たび重なる戦争で疲憊している同盟側はスペインを圧倒するものの、決定的な勝利を得ることができず、パルマ公国を譲渡する羽目になった。大北方戦争ではロシアのツァーリ・ピョートル1世のバルト海進出を抑えるためイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世およびポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世と同盟を結んだ。しかし、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して1721年にフランス・スペインと同盟を結び、オーストリアは孤立した。
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