戦乱の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:15 UTC 版)
幕府権力が衰退したことで、元忠の演能機会は大幅に減少する。京の情勢が小康を得たことに伴って、天文5年(1536年)10月には将軍邸で久々の演能を行うが、以後はしばらく公的な場での出演機会には恵まれなかった。同9年(1540年)3月、丹波守護代波多野氏の後援を受けて京西陣で2度目の勧進能を催行。この前後に、座の重鎮・長俊が逝去したらしい。 天文11年(1542年)、観世大夫邸が火災に見舞われ、能装束が全て焼けてしまうという大損害を蒙る。幸い、後奈良天皇、将軍義晴などからの援助を得て凌ぐことができたが、この際に観世家伝来の文書類の大半が焼失し、被災を免れた伝書類もかなりのダメージを受けてしまった。後年、元忠は失われた伝書・謡本の書写・保存に励むこととなる。 また元忠の頃には、先祖代々の後援者であった南都興福寺との関係も冷却化していた。大和出身の猿楽四座(観世・金春・金剛・宝生)は興福寺の神事に参勤することを義務付けられていたが、元忠は理由をつけて欠勤、あるいは越智観世大夫、十二大夫などに代理を勤めさせることが多く、あまりまともに顔を出さなかったらしい。天文13年(1544年)に金春と金剛が席次を争う事件が起こると、金春大夫喜勝の従兄弟でもある元忠はこれに同調して、弟の宝生大夫重勝とともにサボタージュを決め込むなど、興福寺の軽視は著しかった。 しかし後援者たる興福寺の神事へ参加しないということは、幕府権力が後退した今となっては収入の道が断たれるのと同義であった。元忠は一般大衆を対象とした勧進能に活路を求め、天文14年(1545年)3月には相国寺石橋八幡、同21年(1552年)3月には伊勢守犬馬場でそれぞれ勧進興行を行っている。またこの間の同15年(1546年)に、近江国に落ちた義晴父子の元で、新将軍・義輝の元服祝賀能に出演している。 また元忠は地方興行にも早くから積極的で、27歳の天文4年(1535年)から九州への旅興行に出ている。当時の九州は能が盛んであり、祖父の禅鳳も晩年には豊後国の大友氏の元に滞在している。そうした縁もあって、九州への旅は以後も複数回行われたと見られている。同22年(1557年)には祖先・世阿弥の流された佐渡国に渡っているが、これは越後国の上杉謙信の招聘によるものだったらしい。また安芸厳島神社へは、永禄6年(1563年)に法楽能を舞ったのを初めに、永禄11年(1568年)など何度か赴いている。 永禄元年(1558年)、将軍義輝と三好長慶との間に和議が成立すると、再び京に安定が戻る。これに伴い元忠も同4年3月、義輝の三好義興邸訪問の際に能を舞うなど、京での活動を活発にする。 永禄7年(1564年)5月には、相国寺石橋八幡で養子・元尚とともに、将軍義輝臨席の元、生涯最後となる4日間の勧進能を催行する。元忠は「朝長」「定家」「邯鄲」「老松」「安宅」「二人静」「三井寺」「山姥」「松風」「三輪」「春日龍神」「猩々」「当麻」「実盛」「卒都婆小町」「桜川」といった曲のシテを勤めた。しかしこの頃の出演者を見ると、囃子方が全盛期というべき享禄3年(1530年)の勧進能に比して手薄で、観世座の座勢に陰りが見えていたとする指摘がある。 翌・永禄8年(1565年)5月、将軍義輝が三好三人衆らに殺害され、京の情勢は再び流動化する。
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