越智観世
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越智観世、または越智観世座とは、元雅の子「十郎大夫」を初代とし、室町時代中期から戦国時代にかけて活動した、観世座の分派。大和を根拠地とし、特に三世十郎大夫が越智氏の庇護の下で活動したため、後世この名で呼ばれている。 音阿弥の系譜が以後観世大夫を継承していく中、観世座内において半独立したグループとして活動した。『四座役者目録』などはこの越智観世の初代を元雅としている。しかし元雅が不遇の中で地方巡業に活路を見出したのは事実であったが、それが独立したグループ「越智観世」となったのは元雅の死後のことであり、越智観世初代「観世十郎大夫」は、元雅ではなく、同名の息子であると現在では考えられている。 この元雅の遺児観世十郎は、文安4年(1447年)6月24日に東大寺八幡宮の社前で元服祝賀の能を演じたことが記録に残っており、元雅逝去時は5歳にもならぬ幼児だったらしい。そのため元雅の死後、世阿弥直系の座は一度破滅を見ていたが、この十郎大夫の成長に従い、元雅の弟元能(『申楽談義』の筆記者)とその息子・三郎、また観世座に近い有力な猿楽師であった十二家などの後援を受け、父祖ゆかりの大和の地を根拠に活動したと考えられている。 十郎については、康正元年(1457年)興福寺大乗院で音阿弥とともに薪猿楽に出演、寛正6年(1465年)足利義政が南都を訪れるにあたっての四座立合能では観世方の一員として「鶴次郎」を演じ、文明11年(1479年)には興福寺中院で演能と、いずれも奈良での活動が記録に残っている。またこうした観世座の一員としての活動に留まらず、文明9年3月には近江百済教寺で勧進能を興行し、寛正5年、文明13年にも地方興行を行うなど、京を中心とした音阿弥の座に対し、独自の活動を見せている。 また当時の文献に十郎を指して「惣領ノ藤若観世大夫」という文言が見え、大和猿楽の伝統的な後援者である興福寺がこの十郎を観世家の嫡流と見做していたこと、また十郎も祖父・世阿弥の幼名たる「藤若」を襲名していたことが分かる。またいくつかの謡曲を作っていたらしい。 十郎が文明15年(1483年)2月、50代で世を去ったことで、一時越智観世座は崩壊するが、14年後の明応6年(1497年)にはその子が薪能に出演している。この二代目についてはこれ以外の記録が残っていないが、彼の代で元雅の血統は絶えたと見られる。 その没後、六世観世大夫・元広が次男に越智観世家を再興させた。この三代目十郎大夫は越智氏の庇護を受け、越智大夫と呼ばれた。後に元雅系の座を「越智観世」と称したのは、これに由来するらしい。この三世十郎大夫は駿河に下向して今川氏に保護されて、駿河十郎大夫とも呼ばれる。この時徳川家康の能の師となり、元雅以来伝えられてきた『風姿花伝』『申楽談儀』などの世阿弥伝書を家康に献上した。また彼を通じて、宗家にもこれらの伝書は渡った。 程なくして越智観世は消滅したものの、観世座が徳川家に近付くきっかけを作り、世阿弥の著作を後世に伝えるなど、歴史上重要な役割を果たしたといえよう。
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