越智観世とは? わかりやすく解説

越智観世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 02:00 UTC 版)

観世元雅」の記事における「越智観世」の解説

越智観世、または越智観世座とは、元雅の子十郎大夫」を初代とし、室町時代中期から戦国時代にかけて活動した観世座分派大和根拠地とし、特に三世十郎大夫越智氏庇護の下で活動したため、後世この名で呼ばれている。 音阿弥系譜以後観世大夫継承していく中、観世座内において半独立したグループとして活動した。『四座役者目録』などはこの越智観世の初代元雅としている。しかし元雅不遇の中で地方巡業活路見出したのは事実であったが、それが独立したグループ「越智観世」となったのは元雅死後のことであり、越智観世初代観世十郎大夫」は、元雅ではなく同名息子であると現在では考えられている。 この元雅遺児観世十郎は、文安4年1447年6月24日東大寺八幡宮社前元服祝賀の能を演じたことが記録残っており、元雅逝去時5歳にもならぬ幼児だったらしい。そのため元雅死後世阿弥直系の座は一度破滅見ていたが、この十郎大夫成長従い元雅の弟元能(『申楽談義』の筆記者)とその息子三郎、また観世座に近い有力な猿楽師であった十二家などの後援を受け、父祖ゆかりの大和の地を根拠活動した考えられている。 十郎については、康正元年1457年興福寺大乗院音阿弥とともに薪猿楽出演寛正6年1465年足利義政南都訪れにあたって四座立合能では観世方の一員として「次郎」を演じ文明11年1479年)には興福寺中院演能と、いずれも奈良での活動記録残っている。またこうした観世座一員としての活動留まらず文明9年3月には近江百済教寺で勧進能興行し寛正5年文明13年にも地方興行を行うなど、京を中心とした音阿弥の座に対し、独自の活動見せている。 また当時文献十郎指して惣領観世大夫」という文言見え大和猿楽伝統的な後援者である興福寺がこの十郎観世家の嫡流見做していたこと、また十郎祖父世阿弥幼名たる「若」を襲名していたことが分かる。またいくつかの謡曲作ってたらしい十郎文明15年1483年2月50代世を去ったことで、一時越智観世座は崩壊するが、14年後の明応6年1497年)にはその子薪能出演している。この二代目についてはこれ以外の記録残っていないが、彼の代で元雅血統絶えたと見られる。 その没後、六世観世大夫元広次男に越智観世家を再興させた。この三代目十郎大夫越智氏庇護を受け、越智大夫呼ばれた。後に元雅系の座を「越智観世」と称したのは、これに由来するらしい。この三世十郎大夫駿河下向して今川氏保護されて、駿河十郎大夫とも呼ばれる。この時徳川家康の能の師となり、元雅以来伝えられてきた『風姿花伝』『申楽談儀』などの世阿弥伝書家康献上した。また彼を通じて宗家にもこれらの伝書渡った程なくして越智観世は消滅したものの、観世座徳川家近付きっかけ作り世阿弥著作後世伝えるなど、歴史上重要な役割果たしたいえよう

※この「越智観世」の解説は、「観世元雅」の解説の一部です。
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