種彦本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/22 07:42 UTC 版)
「世子六十以後申楽談儀」の記事における「種彦本」の解説
29段以降を欠く、室町後期の写本。 前述のように世阿弥の伝書の多くは、その孫・越智観世十郎大夫が率いた越智観世座が相続したと見られている。しかし十郎大夫の死後、間もなく越智観世の座は途絶えたため、6代観世大夫・観世元広は長男の十郎をしてこの越智観世を再興させ、旧越智観世の遺産を継承させた。 この十郎は戦国の戦乱を避け、駿河に滞在し、徳川家康の知遇を得た。その縁で、十郎は能を好んだ家康に『談儀』を献上した。これが後に種彦本と呼ばれるものである。ところがこの家康蔵書は、ある時期までは将軍家が所蔵していたらしいのだが、なぜか散逸してしまう。 そして文政年間、戯作家の柳亭種彦は古本屋で一冊の古書を発見する。かつての家康蔵書である。種彦はその貴重さを見抜いてこれを買い、また文人仲間にこれを写させた。この写本を「種彦本」と呼ぶ所以である。 この種彦本は続いて、森鴎外の小説で有名な渋江抽斎の手に渡る。その後、堀本同様に松廼舎文庫に納められ、ようやく転変の末に安住の地を得たかと思われたが、間もなくして関東大震災で焼けてしまったのである。 前述の通り種彦本は現存しないが、家康がこの『申楽談儀』を、細川幽斎、織田信忠といった数寄者の大名たちに書写させており、観世宗家の蔵したものも観世大夫宗節がこれを写したものであるため、現在知られる写本は前述の堀本を除き全てこの種彦本の系統を引くものである。また、吉田東伍の翻刻時に、その巻末に主要な校異が掲載されている。
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