越智重明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 17:40 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動越智 重明(おち しげあき、1923年5月17日 - 1998年8月23日[1])は、日本の中国史学者。
略歴
愛媛県出身。東京大学文学部東洋史学科卒、同大学院中退。1979年「漢六朝社会史研究」で九州大学文学博士。愛媛大学文理学部助教授、1955年九州大学文学部助教授を経て、1972年教授、1976年文学部長を務め、1987年定年退官、名誉教授、久留米大学教授。貴族 (中国)の項に越智が加わった論争について記述がある。魏晋南朝政治史が専門[2]。
著書
- 『魏晋南朝の政治と社会』吉川弘文館 1963
- 『晋書』 (中国古典新書)明徳出版社 1970
- 『魏晋南朝の貴族制』研文出版 1982
- 『魏晋南朝の人と社会』研文出版 1985
- 『戦国秦漢史研究』全3巻 中国書店 1988-1997
- 『中国古代の政治と社会』久留米大学越智文庫設置委員会編纂 中国書店 2000
- 『日中芸能史研究』中国書店 2001
脚注
越智重明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
越智の族門制論は、六朝時代に上級士人(郷品一・二品)・下級士人(三-五品)・上級庶民(六-九品)・下級庶民層が形成されており、上から甲門・次門・後門・三五門と名づけた。甲門・次門などの階層区分は元々は岡崎によって為されたものであるが、岡崎がこれらを自然に形成されたものとするのに対して、越智はこの階層が「国家制度に組み込まれた存在」であるとするのが大きな違いである。甲門は通常20歳-24歳で任官の権利を得て、官品六品の秘書郎や著作佐郎などの最高の清官から起家する。次門は25歳-29歳で奉朝請・太学博士・王国常侍・王国侍郎などの濁官で起家し、後門は30歳で、流外官から起家する。 越智は貴族たちの郷論を尊重し、それを皇帝側が政権の中に組み込んだ結果生まれたのがこの族門制であるとする。つまり越智は、当時の貴族勢力が官職の最高位を独占し、ある程度の自律性を持っていたことは確かであるが、それと同時に皇帝権が確固として存在しており、貴族たちに統制を利かせようとしていたことを主張するのである。
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