論争の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
『九品官人法の研究』以前の1950年に川勝義雄は貴族の淵源を後漢末、党錮の禁の際の清流勢力に求める論考を発表。それに対する増淵龍夫の批判を踏まえ、更に谷川道雄による「共同体論」と自らの考えを合流させ、領主化傾向を持つ豪族に対して農民たちの信望を集めた清流豪族が領主化を押し留め、これが貴族へと繋がるとした。またそれに加えて曹操勢力の内部構造を考察し、当時一般に存在した門生・故吏関係が中世封建制的な人間関係であるとし、貴族制の中に中世との関連性を見出そうとした(詳しくは#川勝義雄を参照)。 川勝と真っ向から対立したのが矢野主税である。矢野は1958年から始まる一連の論考の中で、川勝説を厳しく批判し、魏晋の中心勢力は党錮の清流勢力の系譜ではなく、曹操勢力に密着していた系譜であることを論証する。更に魏晋以降の官僚勢力がその生活の糧を俸給に求めざるを得ない存在であるとした。矢野はこれを寄生官僚と名づけ、この後の貴族層も基本的にはこの寄生官僚であるとした(詳しくは#矢野主税を参照)。 寄生官僚論に対する批判はまず越智重明から起こった。越智は矢野が当時頻繁に使われる「貧」という語を官僚層の貧困の証としていることを批判し、「貧」は貴族層の持つ余分な財産は持たず他人に分け与えるべきであるという経済的モラルを表したものであるとした。しかし越智は寄生官僚論自体に反対しているわけではなく、当時の官僚層および貴族層に対する皇帝権の強さを強調し、貴族層は高級官職に就いている間に郷党からは遊離していき、最終的には寄生官僚化するしかないとする。越智は最終的に貴族の家格が皇帝権によって厳格に定められるとする族門制論へと到達する(詳しくは#越智重明を参照)。 論争の時代において一つの画期となったのが、1966年に谷川道雄によってなされたそれまでの研究の総括と提言である。その言葉については貴族制理解を参照のこと。この後の論争は貴族の存立基盤が皇帝権にあるのかあるいは地方共同体にあるのかという論点に搾られることになる。 この三者のうち、川勝と矢野は互いに激しい批判を繰り返し、10を超える応酬が繰り広げられた。越智は論争自体には積極的には関わろうとせず、史料を渉猟して自説の補強に努めた。それぞれの研究成果は川勝1982、矢野1976、越智1982にまとめられている。 川勝は1984年に死去し、論争は決着を見ないままに終わりを告げた。長い間の論争にも拘らず、川勝・矢野共にその立場は論争が始まる前と終わった後であまり変化が見受けられない。これに関して中村圭爾はこう述べる。「つまり、川勝・矢野はその方法や視角において、最後まで共通の地平に立つことは出来なかった。(中略)かれらの対立の根底はここにあるのであり、さらにいえばその深層に貴族制とはいかなるものかという概念の分裂がある。」 この問題意識のもとに、中村は、川勝の共同体論・矢野の寄生官僚制論を、どちらも貴族制を理解するために必要な「視点」であり、どちから片方を欠いて貴族制を語るようなことはなされるべきではないとした。つまり越智・矢野・川勝・谷川らの研究はそれぞれ貴族という存在の異なる面に光を当てるものであり、そこから現れた像が表面上は矛盾して見えてもそれを内包するのが貴族という存在であるということである。ここにおいて論争は一旦振り出しに戻ることになる。
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