論争の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 02:32 UTC 版)
イエズス会員たちは宣教師として中国におけるキリスト教の普及を最大の目標にしていたが、さしあたっての問題は知識人階級たちが儒教を、一般庶民が道教と仏教を信奉しているということであった。中国人の生活の中にこれらの宗教は密接に結びついていた。特に儒教と道教において祖先の位牌の前で香を焚き、祈りをささげる行為は人々の生活から切り離せないものだった。イエズス会員たちはこれを「宗教的儀式」ではなく「宗教色のない古来からの社会的習慣」であると主張し、カトリックに改宗したものであってもそれらの儀式を行うことはさしつかえないと主張した。 1631年になってドミニコ会とフランシスコ会も中国に宣教師を送り込んだが、イエズス会員のように中国の事情を考慮せず、ヨーロッパの習慣ややり方を強制し、中国人の伝統や文化を軽視する態度を見せたため反発を受け、最終的に官憲から追放の憂き目にあった。ドミニコ会員たちは、この追放処分はイエズス会が官憲に働きかけたためであると一方的に断定し、教皇庁に中国のイエズス会員たちが異教の習慣を許容していると訴えた。これを受けて1645年教皇庁から中国における典礼行為を禁止する旨の通達が出され、教皇インノケンティウス10世もこれを承認した。しかしイエズス会員たちは詳細にこれに反論、教皇庁から中国の典礼行為のすべてが宗教的なものでないという先の裁定と異なる認可を得たため、論争は混乱した。 その後も論争は続いたが、1693年に中国在住のパリ外国宣教会会員メグロが中国での典礼行為はすべて異教のものであるとして禁止したため、反イエズス会の雰囲気が強まっていた本国フランスでパリ外国宣教会とイエズス会の論争が始まった。 この時期、イエズス会側からは、ル・コントの『中国の現状に関する新しい覚書』(1696年)などが出版され、ル・ゴビアンが彼を擁護した。
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