道教と仏教とは? わかりやすく解説

道教と仏教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)

元 (王朝)」の記事における「道教と仏教」の解説

中国の宗教でもっともはじめにモンゴル保護勝ち取ったのは金の治下生まれた全真教始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギス宮廷に赴き、モンゴルによる保護免税引き換えモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギス勅許によって華北一帯はじめとするモンゴル帝国漢地領土において宗教諸勢力統括する特権得たため、その勢力急速に拡大するになった金朝首都であった中都(のちの大都建設される)を拠点として、教団金朝滅亡後失職した官吏保護し、さらに全真教系列各地道観漢人官僚組織育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下漢地領土において行政組織運営携わった。しかし、この急激な教団拡大浄土教系や禅宗などの華北中国仏教教団との深刻な対立生み出した。特に、全真教道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存仏教寺院不法に接収し道観作り替えたり、寺院付属荘園没収し私領するなどの事件多発したため、仏教諸派モンゴル宮廷にこの事態直訴する事態となったモンケの治世カラコルム中都都合3回行われたといういわゆる道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されウィリアム・ルブルック出席しており、帝国内外キリスト教徒イスラム教徒知識人たちも参加していた) 京兆府現在の西安)から中都燕京)に派遣されクビライのもとで開催された時、華北仏教諸派嘆願汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力剥奪され代わりに中都での宗教行政総監であったカシュミール出身仏僧国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれチベット仏教サキャ派高僧サキャ・パンディタ、およびパスパ宗教界監督する権限与えた全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力一時的に後退させた。しかしながら、これは根本的に道教弾圧されたわけではなく、また南宋併合が進むと、後漢五斗米道系譜をひく正一教江南道教の統括者地位与えられて、保護拡大された。この前後から全真教のみならず少林寺玄中寺などの浄土宗禅宗仏教大寺院をはじめ曲阜などの孔子廟などに加えチベット仏教へも歴代モンゴル皇帝王族貴族層から多大な保護寄進を受ける。 仏教は、はじめに保護獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷仕え在家信者通じてモンゴル信任受けた代表的な僧に杭州中峰明本1263年 - 1323年)がいる。しかし、やがてチベット仏教勢力拡大しモンゴル貴族の間にチベット仏教大いに広まる。クビライサキャ派教主パクパパスパ)に対し1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号授け、元領内全仏教団対す統制認めたパクパ一族叔父から甥へと継承したサキャ派教主代々国師帝師として重用され専属官庁として宣政院与えられて、宗教行政チベット施政統括した。元代後期から末期になると、これに耽溺するモンゴル王侯増えラマ過大な特権与えたり宮廷に篭もって政治かえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費行ったことは元の衰亡要因として古くからよくあげられる点のひとつである。

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