論争の概観
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宋代史研究の第1期は昭和20年(1945年)の敗戦から1950年代の時期である。地主と佃戸関係を基本的な生産関係があるのか、など主に佃戸の歴史的性格をめぐって論争が展開された。東京大学・歴史学研究会を中心とする学派(東大派・歴研派)の周藤吉之と仁井田陞が佃戸の奴隷的隷属性の研究に着手し、地主に経済的のみならず人身的と人格的に支配されている事から農奴と規定した。東大派が宋代以降の中国の経済的な農業社会について封建社会説を唱えたのに対し、京都大学を中心する京都学派の宮崎市定は地主と佃戸の関係を自由と対等な経済的契約関係があるとして、宋代以降の社会を近世資本主義社会とした。全く相容れない両説を折衷しようとしたのが柳田節子で、地域差と言う観点を導入して両者の対立を解決しようとした。 宋代史研究の第2期は1960年代に唱えられたものである。国家は民である(自作農を中心に地主と佃戸も含まれる)事から国家と民の関係を基本とするものであり皇帝を唯一の奴隷主として民を全て皇帝の奴隷をする。重田徳と小山正明の個別人身支配説がある。他に田中正俊のアジア的奴隷制説があり皇帝を農奴主として民を全て農奴とする説と鳥居一康の国家的農奴制説がある。 宋代史研究の第3期が1970年代から現在に至る学説である。村落共同体を基礎として第1期の地主と佃戸関係の宋代史研究の学説と第2期の国家と民の関係の宋代史研究を統一しようとした時期である。柳田節子や高橋芳郎や佐竹靖彦など諸氏の研究の丹蕎二の説がある。生産関係と諸関係について宋代社会は農業社会である。大地から諸生活手段が誕生した。生産する人間集団の最少の単位は家族である。家族より上位の単位は村落である。村落か人間と同じ家族の生産と再生産活動に何の意味もないとされる。村落共同体は実在しないとされる。
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論争の概観
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宋代史研究の第1期は昭和20年(1945年)の敗戦から1950年代の時期である。地主と佃戸関係を基本的な生産関係があるのか、など主に佃戸の歴史的性格をめぐって論争が展開された。東京大学・歴史学研究会を中心とする学派(東大派・歴研派)の周藤吉之と仁井田陞が佃戸の奴隷的隷属性の研究に着手し、地主に経済的のみならず人身的と人格的に支配されている事から農奴と規定した。東大派が宋代以降の中国の経済的な農業社会について封建社会説を唱えたのに対し、京都大学を中心する京都学派の宮崎市定は地主と佃戸の関係を自由と対等な経済的契約関係があるとして、宋代以降の社会を近世資本主義社会とした。全く相容れない両説を折衷しようとしたのが柳田節子で、地域差と言う観点を導入して両者の対立を解決しようとした。 宋代史研究の第2期は1960年代に唱えられたものである。国家は民である(自作農を中心に地主と佃戸も含まれる)事から国家と民の関係を基本とするものであり皇帝を唯一の奴隷主として民を全て皇帝の奴隷をする。重田徳と小山正明の個別人身支配説がある。他に田中正俊のアジア的奴隷制説があり皇帝を農奴主として民を全て農奴とする説と鳥居一康の国家的農奴制説がある。 宋代史研究の第3期が1970年代から現在に至る学説である。村落共同体を基礎として第1期の地主と佃戸関係の宋代史研究の学説と第2期の国家と民の関係の宋代史研究を統一しようとした時期である。柳田節子や高橋芳郎や佐竹靖彦など諸氏の研究の丹蕎二の説がある。生産関係と諸関係について宋代社会は農業社会である。大地から諸生活手段が誕生した。生産する人間集団の最少の単位は家族である。家族より上位の単位は村落である。村落か人間と同じ家族の生産と再生産活動に何の意味もないとされる。村落共同体は実在しないとされる。
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