論争の経緯
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古事記や日本書紀(8世紀成立)には、邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述がないが、古い中国の史書とは時期も異なる。例えば、中国の魏志倭人伝(3世紀成立)では、魏(帯方郡)への朝貢は卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされているが、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后一人であるとされている。 こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林は異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武を雄略天皇と清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。 多くの国学者に影響を与えた本居宣長は馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲や任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。明治維新以降も戦前・戦後を問わず神宮奉斎会会長の今泉定助、東京帝国大学教授の飯田武郷、九州帝国大学教授の長沼賢海、東北大学名誉教授の井上秀雄らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。 こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞や安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。 一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では2018年(平成30年)に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、小説家の百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。
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論争の経緯
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「方法論争 (社会科学)」の記事における「論争の経緯」の解説
歴史学派の方法に対する批判を含んでいたメンガーの『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』(1883年)に対し、シュモラーが反論となる書評を『シュモラー年報(Schmollers Jahrbücher)』に寄せたことによって、論争の口火が切られた。これに対し、メンガーは1884年に『ドイツ国民経済学(政治経済学)における歴史学派の誤謬』というパンフレットを刊行し再反論した。これに対し、シュモラーは論争を一方的に打ち切る旨通告した。 この論争そのものはやがて、歴史学派系ではルヨ・ブレンターノ、マックス・ヴェーバー、ヴェルナー・ゾンバルトらを、オーストリア学派系では、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク、フリードリヒ・フォン・ヴィーザー、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスらを巻き込んでいった。
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