自由海論
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『自由海論』(じゆうかいろん、ラテン語: Mare Liberum)は、フーゴー・グロティウスによってラテン語で書かれ1609年に初版が刊行された本[1][2]。『海洋自由論』[2]、『海洋の自由』[3]と翻訳されることもある。正確な題名は『自由海論、インド貿易に関してオランダに帰属する権利について』(Mare Liberum, sive de jure quod Batavis competit ad Indicana commercia dissertatio)という[4]。『戦争と平和の法』(ラテン語:De jure belli ac pacis)と並び「国際法の父」といわれるグロティウスが著わした代表的な法学書のひとつである[5]。母国オランダの立場を擁護する観点から海洋の自由を論じ[1][6]、それを論拠としてすべての人が東インドとの通商に参加する権利を有するとして、オランダは東インドとの通商を継続すべきであることを主張した[7][8]。『捕獲法論』(ラテン語:De jure praedae)がグロティウスの死後の1864年に発見されたことにより、この『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものに修正を加えたものであったことが明らかになった[1][9]。『自由海論』は学術的論争の発端となり[10]、その後の近代的な海洋法秩序形成を促すこととなった[11]。現代の公海に関する制度にはこの『自由海論』で論じられた理論に起源をもつものもある[12]。
注釈
- ^ ただしグロティウスが東インドに関する詳細な情報提供を受けたのは『自由海論』出版の数カ月前のことであり、『捕獲法論』執筆当時におけるグロティウスの東インド情勢への理解はそれほど十分なものであったとはいえない[21]。
- ^ 発見されて『捕獲法論』と呼ばれるようになったが、グロティウス自身はこの『捕獲法論』の原稿のことを『インドについて』(De Indis)と呼んでいた[28]。
- ^ 初版での頁番号を記した。序文を含め、本文ではない頁には頁番号が付されていない。序文は最初の頁にある目次の次の頁から全10頁にわたって書かれている。あとがきも2頁あるが、こちらにも頁番号は書かれていない[31]。
- ^ 本文最後の66頁目には42の頁番号が誤って印刷されている[32]。
- ^ 1493年5月4日に教皇アレクサンデル6世は、アゾレス諸島とベルデ岬の西方約560キロの子午線を境界としてこれ以降この境界より西側で発見される地域をスペイン領、東側をポルトガル領とする教書を発した[44]。これを教皇子午線といい、ポルトガルが東インドへの航路の支配を主張した根拠としたものである[45]。これについてグロティウスは、教皇は世俗的支配者ではないから海の支配者ではないし、支配者であったとしても勝手に贈与する権利はないと説いたのである[45]。こうしたことを論じた結果として、1610年1月30日にローマ教皇庁は『自由海論』を禁書目録に掲載することとなった[45]。
出典
- ^ a b c d 国際法辞典 2002, p. 174, 「自由海論」.
- ^ a b c d 大澤 1941, pp. 9–10.
- ^ 山内 2009, pp. 973–975.
- ^ 大澤 1941, pp. 10–11.
- ^ 国際法辞典 2002, p. 74, 「グロティウス」.
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- ^ Borschberg 2005, pp. 9–11, note.12..
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- ^ 大澤 1941, pp. 13–15.
- ^ 伊藤 1963, pp. 465–468, 注釈1。.
- ^ 伊藤 1963, pp. 239–241目録の日本語訳は同頁から引用。
- ^ 生越 2016, p. 5.
- ^ 大澤 1941, pp. 8–9.
- ^ 伊藤 1973, pp. 39–40より、各章の題名日本語訳を引用。
- ^ “Mare Liberum, Overzichtpagina”. Koninklijke Bibliotheek. 2014年4月27日閲覧。
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- ^ 国際法辞典 2002, p. 85, 「公海」.
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- ^ van Nifterik 2009, pp. 14–15.
- ^ 中里 2013, pp. 12–14.
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