戦乱の幕開け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)
その中、189年に皇帝の霊帝が崩御する。その後継を巡って何皇后が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが起こるが、何皇后側が勝利し、劉弁が皇帝に即位した(少帝弁)。後継争いに勝利したことで宦官勢力を押さえ込んだ何進は、名門の出身である袁紹に唆されて宦官誅滅を謀るが、逆に宦官に殺される。これを見た袁紹や袁術たちは宮中に入り込んで宦官を虐殺し始めた。この混乱の中で少帝弁と陳留王劉協は宮廷の外へと連れ出され、何進の呼びかけに応えて洛陽へやってきていた西涼の董卓により保護される。朝廷の実権を手中にした董卓は洛陽に暴政を布き、少帝を廃して陳留王を皇帝につけた(献帝)。 190年、これに反対する刺史・太守などの軍閥たちは各地で反董卓の軍を挙げて、連合して董卓を攻めた(反董卓連合軍)。連合軍と董卓軍は何度か激突するが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移した。袁術の部将の孫堅が洛陽を制圧した。 この時点での後の三国の創始者たちの動向であるが、魏の創始者である曹操は連合軍には参加しており、自前の兵力は少なかったが、鮑信と手を組んで、董卓軍に果敢に挑んだものの、大敗した。蜀漢の創始者である劉備は連合軍の中の公孫瓚の配下の一武将に過ぎなかった。呉の創始者である孫権の父の孫堅は、荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨を殺害するなど傍若無人を極めていたが、袁術の配下に収まってからは陽人の戦いで董卓軍を破り、董卓の武将である華雄を討ち取り、洛陽を制圧するなど、目立つ活躍を見せた。 袁紹は董卓により擁立された長安の献帝に対抗すべく、幽州の劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに強く反対している。劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。 この頃、中国北部では韓馥から冀州を奪い取った袁紹と幽州に割拠する公孫瓚が対立し、中国中部では豫州と荊州南陽郡で袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げていた。中国南部では荊州で劉表が、益州では劉焉が勢力を拡大していた。 袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、191年、袁紹は周昂(または周昕)を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周昂(または周昕)と豫州を奪い合うこととなった。これにより反董卓連合軍は完全に崩壊して袁術と袁紹の対立が激化し、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。 192年(191年、193年の説もある)、袁紹の意を受けた荊州の劉表が袁術の背後を襲い、袁術の命令で孫堅が劉表を攻めたが、劉表の部下の黄祖のために戦死した(襄陽の戦い)。孫堅の軍は孫賁が継いで袁術のもとに帰還した。 192年1月、董卓軍の牛輔は李傕・郭汜・張済に命じて、中牟で袁術派に寝返っていた朱儁を破らせ、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略させ、李傕・郭汜らは行く先々で略奪・殺戮・誘拐を行った。 董卓は銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、経済混乱(インフレーション)を招いた。 192年4月、董卓は司徒の王允と部下の呂布により殺された。董卓の勢力は部下の李傕・郭汜らに引き継がれた。李傕・郭汜らは王允・呂布を破り、献帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となったが、暴政を布いたので三輔は荒廃した。
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