戦乱の推移2
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1860年2月から5月、第二次江南大営攻略では、干王洪仁玕・忠王李秀成・輔王楊輔清・侍王李世賢・英王陳玉成らが好く呼応して清軍を撃破。この後陳玉成は曽国荃(曽国藩の弟)率いる湘軍を相手にすることになった。 洪仁玕の加入に洪秀全は大いに安堵を覚えたのであろうが、李秀成らは不満を抱かざるを得なかった。初期の信者とはいえ、洪仁玕の改革が現実離れしていることや、さして戦功をたてていないことから、彼が王に封じられるのは洪秀全の身内びいきとしか思えなかったからである。このため、李秀成らを新たに王としたものの、彼ら新王と洪仁玕との溝は深まるばかりで、再び太平天国は内紛の様相を帯びてきた。特に李秀成・李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、独断専行が徐々に増えていくことになる。 たとえば1860年における上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは列強の租界があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁玕は西欧と交渉し、少なくとも清朝に荷担しないよう画策していた。しかし交渉に業を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け自身すら負傷した。これなどは洪仁玕・李秀成両者の西欧体験の有無が大きく影響した結果生じた齟齬と言えるであろう。 そしてさらに深刻な事態が発生した。陳玉成は長江中流で湘軍と死闘を繰り広げていたが、武漢で李秀成軍と合流し共同で曽国藩にあたる作戦を立てていた。しかし李秀成は江南制圧を重視し、合流は果たされなかった。結果陳玉成は敵地に孤立し殲滅された。 かつての太平天国であれば、一旦敗走しても兵力の増強はさして問題ではなかった。規律正しい太平天国軍は民衆の支持を受けていたためである。しかし末期になると、規律は全く弛緩しきっていた。太平天国が食の確保に追われ無秩序な徴収・略奪を重ねていたことが主な原因である。投降した清朝兵士を自軍に編入し、質が一層低下したこともそれに拍車をかけた。しかし兵の質が劣化しても、そのプライドは健在であった。そのため太平天国と同時期に発生した捻軍等のほかの反乱軍と歩調を合わせる動きがあっても、太平天国側の自尊心がそれを阻害した。太平天国は末期症状を呈し始めていたといえる。 太平天国の劣勢は、自壊作用だけが原因ではない。清朝側の軍建て直しも大きく功を奏した。清朝の軍事は八旗と緑営を基本としていたが、時代が下るにつれて退廃して使い物にならなくなっていた。そこで新たな軍形態が模索される。すなわち既に幾度か触れたが、曽国藩の湘軍・李鴻章の淮軍がそれである。この新形態の軍は極めて個人と個人のつながりを重視した郷勇から誕生した組織であった。 曽国藩はまず故郷において、自らを師と仰ぐ人々を集め、さらにその人々が個人的に信頼する部下を地縁・血縁・学問の関係の中から集める、といったかたちで軍を形成した。その忠誠心は清朝よりも指揮官個人に向けられているといってよく、曽国藩の私兵的性格が濃厚であった。1854年以降、湘軍は長江中流域において太平天国を迎え撃ったが、それだけでは太平天国に対処し切れなかったために、1862年に李鴻章に命じて安徽省で湘軍をモデルとした淮軍を創建させた。李鴻章の淮軍は太平天国の乱が収束しても湘軍のごとく解散しなかったために、以後の中国近代史に確固たる地歩を占めることになる(北洋軍閥)。 さらに太平天国は外国人傭兵部隊とも戦わねばならなかった。上海の官僚と商人が資金を拠出して、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用した。この軍はアメリカ人フレデリック・タウンゼント・ウォードを指揮官とし洋槍隊という名で発足した。翌年には、中国人を4・5千人徴兵し常勝軍と改名した。中国初の西洋風軍隊といってよい。ウォードの戦死後、多少混乱があったが、イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任すると再び破竹の勢いを取り戻した。常勝軍の成功に倣い、各地に同様の軍隊がつくられた。常安軍や定勝軍、常捷軍がそれである。同じ中国人であっても洋式の軍隊装備をすれば強くなれる、ということを常勝軍は証明していた。この強さを目の当たりにした曽国藩らは以後軍隊の近代化に力を入れるようになる。つまり常勝軍は洋務運動の原点ともいえる。1860年10月に締結された北京条約以後になると、欧米諸国は明確に太平天国に敵対した。上海や寧波の戦いでは英仏軍が積極的に参加し、太平天国軍は苦戦を強いられた。
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