戦争、3度の出征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 21:28 UTC 版)
1937年(昭和12年)日中戦争勃発。芸術家達にも戦争の暗い影が迫っていた。日本のシュルレアリスムは開戦とともに弾圧されていく。それだけでなく、二・四事件(長野県全体で起きた教師弾圧事件)によって失われた教職への国家の信頼を取り戻すべく、以降の長野県の教育は、戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった。 1939年(昭和14年)臨時召集により水戸工兵隊に入隊。満州(現在の中国東北部)に出兵。 1940年(昭和15年)召集解除により帰任。 1941年(昭和16年)岡谷中央国民学校の助教員として採用された年、太平洋戦争開戦、臨時召集により出征。 1942年(昭和17年)召集解除により帰任。 1943年(昭和18年)岡谷中央国民学校を体調不良により依願退職。母校である県立諏訪中学校の嘱託教諭となる。後に洋画家となる篠原昭登が4年生の時に、矢崎が出征する前の数回授業を受けた。 第7回一水会展に「早春」が入選。 金沢部隊に召集され3度目の出征。 1944年(昭和19年)2月に乗っていた輸送艦の船底で作業していたところに魚雷攻撃を受けチューク諸島(トラック島)付近で戦死、(トラック島空襲)享年29歳。 矢崎博信と同時期帝国美術学校で学んだ、他の多くの前衛美術家、および画家達も戦火に若い命を散らしていた。 浅原清隆 1934年入学 (矢崎の動向の仲間)1945年ビルマで行方不明、30歳。 大塚耕二 1934年入学 (矢崎のアヴァン・ガルド芸術家クラブの仲間)1945年フィリピンルソン島にて戦死、享年31歳。 森堯之 1934年入学(大塚耕二の絵画グループ「表現」の仲間) 1944年出征中ビルマにて病死、享年29歳。 庄司正 1938年卒業(矢崎と浅原の『T映』の仲間) 1944年パプアニューギニアにて戦死、享年28歳。
※この「戦争、3度の出征」の解説は、「矢崎博信」の解説の一部です。
「戦争、3度の出征」を含む「矢崎博信」の記事については、「矢崎博信」の概要を参照ください。
- 戦争、3度の出征のページへのリンク