戦争とその後
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「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の記事における「戦争とその後」の解説
1857年秋、「アトランティック・マンスリー」が創刊され、ローウェルはその初代編集者になった。創刊号はその年の11月であり、直ぐに高い文学性と公的事柄に関する大胆な発言という特徴を与えた。1861年1月、ローウェルの父が心臓発作で死んだ。このことで家族ごとエルムウッドに戻ることにした。友人のブリッグスに宛てて「私は最も愛する場所に再び戻って来た。古い屋根裏部屋の、古い机の前に座り、古いパイプをくゆらせ、...直近10年間よりも古い自分に会ったような感じがし始めている」と記していた。それから間もない5月に、ジェイムズ・トマス・フィールズが編集長になり、ローウェルは「アトランティック・マンスリー」を離れた。この雑誌はその2年前に、ティックナー・アンド・フィールズから1万ドルで買収されていた。ローウェルは1861年1月にエルムウッドに戻ったが、この雑誌のオーナーとの親密な仲は維持しており、その生涯を通じて詩や散文の投稿を続けた。しかし、その散文は、1862年から1872年の期間には、「ノース・アメリカン・レビュー」の方に多く掲載された。この雑誌ではチャールズ・エリオット・ノートンと共に共同編集者を務めた。ローウェルの編集で、当時の非常に幅広い文学作品を掲載していたが、自分の詩は少なかった。 ローウェルは1845年に既に奴隷制度に関する議論が戦争に繋がると予測しており、南北戦争が1860年代に始まると、「ノース・アメリカン・レビュー」の編集者という役割を使ってエイブラハム・リンカーン大統領を称賛し、合衆国を維持しようという努力を称えた。この戦争中に北軍の准将になり、シーダークリークの戦いで戦死したチャールズ・ラッセル・ローウェル・ジュニアなど3人の甥を亡くした。ローウェル自身は概して平和主義者だった。それでも、「奴隷制度の破壊が戦争の結果としておこるのならば、それを後悔するだろうか?戦争をうまく遂行する必要があるのならば、誰がそれに反対するだろうか?」と記していた。南北戦争に関するその関心によって『ビッグロー・ペーパーズ』の第2シリーズを書くことになり、その中には1862年に「田園戦線の何か」とよぶ奴隷解放宣言予告に特に捧げたものがあった。 リンカーンの暗殺から間もなく、ローウェルはこの戦争で殺されたハーバードの卒業生の記念にする詩を贈ることを求められた。その詩『記念の頌歌』は睡眠時間を削らせ、食欲も減退させたが、48時間書き続けた後の1865年7月21日に届けられた。ローウェルはその仕事に高い望みを持っていたが、その日にはラルフ・ウォルドー・エマーソンやオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアなど他の著名人の作品も提出されており、その陰に隠れることになった。ローウェルは「私は予想したヒット作を作れなかった。『詩』を書くことができると考えるよう再び誘われたことを恥じる。その妄想からここ何十年も逃れてきたはずだった」と記していた。その自己評価にもかかわらず、友人や他の詩人はローウェルに手紙を送って祝意を伝えた。エマーソンはローウェルの詩の「高い思想性と感情」に言及し、ジェイムズ・フリーマン・クラークは「調子の雄大さ」に注目した。ローウェルは後にそれを拡張して、リンカーンへのストローフィ(頌歌)とした。 1860年代、ローウェルの友人であるロングフェローが数年間を使ってダンテ・アリギエーリの『神曲』を翻訳しており、水曜日の夕方には定期的に他の者達をその支援のために招いた。ローウェルはいわゆる「ダンテ・クラブ」の主要メンバーであり、他にウィリアム・ディーン・ハウエルズやチャールズ・エリオット・ノートンの他不定期なゲストもいた。1867年1月24日、ローウェルは友人で出版者のナサニエル・パーカー・ウィリスの葬儀で棺を担ぐ人を務めてから間もなく、新たな詩集を制作することにした。『柳の下とその他の詩』は1869年に出版されたが、ローウェルはその題を当初『ヴィンランドへの旅とその他の詩』にするつもりだった。この本はノートンに捧げられ、過去20年間に書いた詩を集め、1848年以来の詩集となった。 ローウェルは再度ヨーロッパ旅行を計画した。その費用のためにエルムウッドの土地をさらに売却し、家はトマス・ベイリー・アルドリッチに貸した。ローウェルの娘メイベルは、このときまでに夫のエドワード・バーネットと共に新居に移っていた。バーネットはサウスボロの成功した事業家かつ農園主の息子だった。ローウェルはハーバードから休暇を取得し、彼とその妻は1872年7月8日に出発した。イングランド、パリ、スイス、イタリアを訪問した。海外にいる間に、オックスフォード大学から名誉法学博士を、またケンブリッジ大学からも同様な博士号を贈られた。夫妻は1874年夏にアメリカ合衆国に戻った。
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戦争とその後
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1866年、プロイセンはオーストリアに宣戦布告、想像をはるかに超える速さで大勝した。密約を口約束以上に考えていなかったナポレオン3世は慌てて介入を企てるが、早々に両国が和議を結んだため失敗した。ナポレオン3世はなおも、条約を理由にライン川左岸を要求するも、元々割譲する気がなかったビスマルクによって一蹴された。結局ライン川流域はプロイセンの統治下に置かれた。この一件はフランス国民の反ドイツ感情を煽り、後の普仏戦争の一因となった。 この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
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