日中戦争とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:37 UTC 版)
1937年(民国26年)4月、于学忠は第51軍を率いて江蘇省に向かい、江蘇省綏靖公署主任に任ぜられた。7月、山東省の海防を担当することになり、翌月、第3集団軍副総司令に任ぜられた。翌1938年(民国27年)1月には同集団軍総司令に昇進し(同年中に第5集団軍総司令となる)、台児荘戦役(台児荘の戦い)や武漢会戦を戦う。しかし戦闘を経ても、東北軍の于学忠は中央直系ではないとして、補給で差別を加えるなどされ、次第に于学忠の軍は消耗していった。それでも1939年(民国28年)には蘇魯戦区総司令となり、1942年(民国30年)には魯南遊撃総司令も兼任している。1944年(民国33年)3月、前線から退き、軍事参議院副院長に異動した。 国共内戦においては1947年(民国36年)5月に軍事戦略顧問委員会委員をつとめた他、行憲国民大会代表にも選出されている。内戦末期は台湾へ逃れることを拒み、四川省で隠居した。中華人民共和国建国後の1952年12月に、河北省人民政府委員に任命される。1954年8月には第1期全国人民代表大会代表に選出され、翌月、国防委員会委員に任ぜられた。1956年、中国国民党革命委員会(民革)第3期中央委員に選出されている。1964年9月22日、北京にて病没。享年75。
※この「日中戦争とその後」の解説は、「于学忠」の解説の一部です。
「日中戦争とその後」を含む「于学忠」の記事については、「于学忠」の概要を参照ください。
- 日中戦争とその後のページへのリンク