日中戦争と汪兆銘工作とは? わかりやすく解説

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日中戦争と汪兆銘工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「日中戦争と汪兆銘工作」の解説

日中戦争」および「汪兆銘工作」も参照 1937年民国26年昭和12年7月7日盧溝橋事件きっかけに、日中戦争支那事変)が始まった徹底抗戦を貫く蔣介石対し、汪は「抗戦」による民衆被害中国国力低迷心を痛め、「反共親日」の立場示し和平グループ中心的存在となった日本は、つぎつぎ大軍投入する一方外相宇垣一成イギリス仲介による和平の途を模索していた。しかし、宇垣工作陸軍出先陸軍内部革新派からの強い反対を受け、頓挫した11月20日国民政府南京から四川省重慶への遷都通告し一部部署湖北省武漢移転図られた。12月13日日本軍国民政府首都であった南京占領した。翌14日には、日本軍指導北京王克敏行政委員長とする中華民国臨時政府成立している。 このころできごととして、汪兆銘次女の汪文彬に、「いま、父が計画していることが成功すれば中国国民幸せ訪れる。しかし失敗すれば家族全体末代まで人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」と語ったというエピソードがある。 駐ドイツ大使オスカー・トラウトマン中心とするトラウトマン工作失敗受けた近衛内閣は、軍部強硬論影響もあって、1938年1月に「今後蔣介石国民政府交渉相手にしない」という趣旨近衛声明第一次)を発表した南京占領後日中戦争徐州作戦武漢作戦広東作戦経て戦争長期持久戦となっていった。 1938年3月から4月にかけて湖北省漢口開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて国民党総裁制が採用され蔣介石総裁汪兆銘副総裁就任して徹底抗日」が宣言された。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである一方3月28日には南京梁鴻志行政委員長とする親日政権中華民国維新政府成立している。こうしたなか、この頃から日中両国和平派水面下での交渉重ねようになった。この動きはやがて、中国側和平派中心人物である汪をパートナー担ぎ出して和平」を図ろうとする、いわゆる汪兆銘工作」へと発展した。 その中心となったのは、当初国民政府外交部アジア日本課長の董道寧、南満州鉄道南京事務所長の西義顕、同盟通信社上海支局長の松本重治であった。西、松本は董道寧の日本行き賛成し、董道寧の日本でのスケジュール陸軍参謀本部第八課長影佐禎昭大佐依頼した1938年2月末、董道寧は西の部下である伊藤芳男同行して来日し、影佐大佐と会った。影佐は、董道寧を時の参謀次長多田駿中将第二部長の本間雅晴少将支那班長今井武夫中佐らに紹介している。3月27日、董道寧、董道寧の上高宗武、西、伊藤松本の5人は香港会談行い和平工作進めた汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた。1938年6月、汪とその側近である周仏海意を受けた高宗武渡日して日本側と接触、高の会談相手には多田参謀次長含まれていた。高宗武自身日本和平相手汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権維持したうえでの和平工作考えていた。 1938年10月12日、汪はロイター通信記者に対して日本との和平可能性示唆、さらにそののち長沙焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立決定的なものとなった日本では11月3日近衛文麿が「善隣友好共同防共経済提携」の三原則から成る東亜新秩序声明発表していた(第二次近衛声明)。これは、日本提唱する東亜新秩序参加するならば、蔣介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明修正意味していた。一方陸軍参謀本部今井武夫によれば、汪は11月16日の蔣との話し合いで、蔣政権からの離脱決心した伝えられる11月上海重光堂において、汪派の高宗武梅思平と、日本政府意を体し参謀本部今井・影佐との間で話し合い重ねられた(重光会談)。11月20日両者は「東亜新秩序」の受け入れ中国側による満洲国承認がなされれば日本軍2年以内撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。そして、日華防共協定むすばれるならば、日本治外法権撤廃し租界返還考慮するとされたのである。 この合意実現のため、汪側は、「汪は重慶脱出する日本和平解決条件公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾声明発表し昆明雲南省)や四川省などの日本占領地域に新政府樹立する」という計画策定した汪兆銘は、このまま戦争長引けば必ずや亡国に至るであろう判断して重大な決断下したのであるが、それでもなお最終的な調印条件もたらされ後になって急にこれまでの決定をすべて覆して検討したい述べるなど、その決断には大きな動揺ともなった。なお、日本軍南京占領以降南京住んでいた妻の陳璧君は曾仲鳴の用意した小さな軍艦重慶にうつり、金陵大学(現、南京大学当時四川省成都疎開)を卒業した何文傑もまた陳璧君誘いに応じて重慶汪兆銘のもとに集まった12月18日、汪はついに重慶からの脱出決行した行動をともにしたのは、陳璧君、何文傑、腹心の曾仲鳴、末端秘書の陳常燾、ボディガードの連軒であった脱出にあたって汪は、蔣介石にあてて長文書簡したためたが、その末尾には「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」と書かれていた。汪の一行は、重慶から昆明向かい雲南省政府主席竜雲協議の場をもった。重光堂の会談では、汪が重慶脱出したら、竜雲雲南軍がまず呼応することになっており、竜雲自身もまた汪の和平工作大きな期待をかけていた。しかし、結果として竜雲は汪一行脱出便宜あたえたとどまった。 汪一行昆明に1泊し12月20日仏領インドシナ首府ハノイ着いた周仏海は、昆明で汪一行合流し、ともにハノイ渡った陳璧君の弟陳昌祖は昆明空港働いていたが、のちにハノイ移った竜雲は、蔣介石対し、汪のハノイ行き正直に打電している。汪らの脱出前後して陶希聖梅思平らの汪グループなど総勢44名がそれぞれ重慶から脱出した。 しかし、汪グループにとって期待外れだったのは、昆明竜雲はじめ、四川の潘文華中国語版)、第四戦区広東広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちが、誰ひとりとして汪の呼びかけ応じなかったことである。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出応える形で発表され近衛声明第三次近衛声明)である。声明は、汪と日本側の事前密約であった日本軍撤兵」には全く触れておらず、日中和平尽力した西や松本衆議院議員犬養健らを嘆かせ、汪グループもこれに強い失望いだいたであった1938年12月29日、汪は通電発表し広く和平反共救国」を訴えた。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的迅速でなけらばならない」と述べそれ以前日本側との交渉内容踏まえ約束履行求めたものではあったが、汪に続く国民党幹部決し多くなく、日本軍撤退もなかった。 1939年1月1日国民党中央執行委員会中央監査委員会重慶連合会開催蒋介石は汪に対して警告発するとどめることを主張したが、出席者大半汪兆銘除名求め結果的に汪の国民党永久剥奪官職剥奪決議された。汪は、除名違法であり、国民政府反省促す声明発表した覆ることはなかった。一方日本では1939年1月近衛文麿が突然首相辞任し、汪の構想は完全に頓挫してしまった。当初の構想変更余儀なくされた汪は、しばらくそのままハノイ滞在した1939年2月26日長女汪文惺と何文傑の結婚式ハノイメトロポリタンホテルでひらかれているこの年3月21日暗殺者ハノイの汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した蔣介石放った刺客は汪をねらったが、たまたま当日は汪と曽が寝室取り替えていたため、曽が身代わり犠牲になったのだった。これに先だって、汪兆銘の甥(姉の息子)で民兵と深いつながりのあった沈次高が蔣介石一派により暗殺され汪兆銘派の首脳宣伝担当していた林柏生香港暴漢襲われた。 汪兆銘は、3月28日付の雲南省香港新聞に、和平工作は汪個人主張ではなく、本来的に蔣介石了解事項であったことを訴えたトラウトマン工作についても、汪のみならず蔣も和平案を認め納得していたことを暴露したうえで、政権内で工作するわけにはいかないから、汪があえて政権外に出て政府意思実践着手したのであり、その彼を裏切り者呼ばわりするのはまことに不当であると批判した日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪を同地より脱出させることとした。陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘意思尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた影佐禎昭陸軍のみならず関係各省合意が必要であると主張して須賀彦次郎海軍少将外務省興亜院からは矢野征記書記官国会議員犬養健らを同行させることを条件に、この工作携わった山下汽船北光丸に乗り込んだ影佐らは4月14日仏領インドシナハイフォン入港し秘密裏ハノイの汪に接触した4月25日、汪はハノイ脱出してフランス船をチャーターしてトンキン湾北上汕頭沖で北光丸に乗り換えて5月6日上海到着したこの頃次女の汪文彬1938年上海大同大学付属高中卒業)は、医学を学ぶため香港向かっていたが、藍衣社蔣介石政権側の秘密結社)によってあやうく誘拐されかけた。そのため、汪兆銘次女日本送り帝国女子医学専門学校(現、東邦大学医学部)で医学学ばせることとした。 吹っ切れた汪兆銘蔣介石との決別決意した一方蔣介石は、汪の和平工作反対して「徹底抗戦」を訴えとともに竜雲李宗仁唐生智といった、かつて汪兆銘親しかった人物の切り崩し工作した。ここに至って両者修復不能な関係に陥ったのである

※この「日中戦争と汪兆銘工作」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「日中戦争と汪兆銘工作」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

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