日中戦争と汪兆銘工作
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「日中戦争」および「汪兆銘工作」も参照 1937年(民国26年、昭和12年)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争(支那事変)が始まった。徹底抗戦を貫く蔣介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった。日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成がイギリスの仲介による和平の途を模索していた。しかし、宇垣工作は陸軍の出先や陸軍内部の革新派からの強い反対を受け、頓挫した。 11月20日、国民政府が南京から四川省重慶への遷都を通告し、一部部署は湖北省武漢に移転が図られた。12月13日、日本軍は国民政府の首都であった南京を占領した。翌14日には、日本軍の指導で北京に王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立している。 このころのできごととして、汪兆銘が次女の汪文彬に、「いま、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」と語ったというエピソードがある。 駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを中心とするトラウトマン工作の失敗を受けた近衛内閣は、軍部の強硬論の影響もあって、1938年1月に「今後は蔣介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の近衛声明(第一次)を発表した。南京占領後、日中戦争は徐州作戦・武漢作戦・広東作戦を経て戦争は長期持久戦となっていった。 1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて国民党に総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している。こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した。 その中心となったのは、当初、国民政府外交部アジア局日本課長の董道寧、南満州鉄道南京事務所長の西義顕、同盟通信社上海支局長の松本重治らであった。西、松本は董道寧の日本行きに賛成し、董道寧の日本でのスケジュールを陸軍参謀本部第八課長の影佐禎昭大佐に依頼した。1938年2月末、董道寧は西の部下である伊藤芳男を同行して来日し、影佐大佐と会った。影佐は、董道寧を時の参謀次長の多田駿中将、第二部長の本間雅晴少将、支那班長の今井武夫中佐らに紹介している。3月27日、董道寧、董道寧の上司高宗武、西、伊藤、松本の5人は香港で会談を行い、和平工作を進めた。 汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた。1938年6月、汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触、高の会談相手には多田参謀次長も含まれていた。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた。 1938年10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的なものとなった。日本では、11月3日に近衛文麿が「善隣友好、共同防共、経済提携」の三原則から成る「東亜新秩序」声明を発表していた(第二次近衛声明)。これは、日本が提唱する東亜新秩序に参加するならば、蔣介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明の修正を意味していた。一方、陸軍参謀本部の今井武夫によれば、汪は11月16日の蔣との話し合いで、蔣政権からの離脱を決心したと伝えられる。 11月、上海の重光堂において、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井・影佐との間で話し合いが重ねられた(重光堂会談)。11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側による満洲国の承認がなされれば日本軍が2年以内に撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。そして、日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである。 この合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明(雲南省)や四川省などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。汪兆銘は、このまま戦争が長引けば必ずや亡国に至るであろうと判断して重大な決断を下したのであるが、それでもなお、最終的な調印条件がもたらされた後になって、急にこれまでの決定をすべて覆して検討したいと述べるなど、その決断には大きな動揺をともなった。なお、日本軍の南京占領以降も南京に住んでいた妻の陳璧君は曾仲鳴の用意した小さな軍艦で重慶にうつり、金陵大学(現、南京大学。当時は四川省成都に疎開)を卒業した何文傑もまた陳璧君の誘いに応じて重慶の汪兆銘のもとに集まった。 12月18日、汪はついに重慶からの脱出を決行した。行動をともにしたのは、陳璧君、何文傑、腹心の曾仲鳴、末端秘書の陳常燾、ボディガードの連軒であった。脱出にあたって汪は、蔣介石にあてて長文の書簡をしたためたが、その末尾には「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」と書かれていた。汪の一行は、重慶から昆明に向かい、雲南省政府主席の竜雲と協議の場をもった。重光堂の会談では、汪が重慶を脱出したら、竜雲の雲南軍がまず呼応することになっており、竜雲自身もまた汪の和平工作に大きな期待をかけていた。しかし、結果として竜雲は汪一行の脱出に便宜をあたえたにとどまった。 汪一行は昆明に1泊し、12月20日、仏領インドシナの首府ハノイに着いた。周仏海は、昆明で汪一行に合流し、ともにハノイに渡った。陳璧君の弟陳昌祖は昆明の空港で働いていたが、のちにハノイに移った。竜雲は、蔣介石に対し、汪のハノイ行きを正直に打電している。汪らの脱出に前後して、陶希聖・梅思平らの汪グループなど総勢44名がそれぞれ重慶から脱出した。 しかし、汪グループにとって期待外れだったのは、昆明の竜雲はじめ、四川の潘文華(中国語版)、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちが、誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかったことである。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、日中和平に尽力した西や松本、衆議院議員の犬養健らを嘆かせ、汪グループもこれに強い失望をいだいたのであった。 1938年12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的で迅速でなけらばならない」と述べ、それ以前の日本側との交渉内容を踏まえ、約束の履行を求めたものではあったが、汪に続く国民党幹部は決して多くなく、日本軍撤退もなかった。 1939年1月1日、国民党中央執行委員会、中央監査委員会は重慶で連合会を開催。蒋介石は汪に対して警告を発するにとどめることを主張したが、出席者の大半は汪兆銘の除名を求め、結果的に汪の国民党籍永久剥奪と官職剥奪が決議された。汪は、除名は違法であり、国民政府の反省を促す声明を発表したが覆ることはなかった。一方、日本では1939年1月、近衛文麿が突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫してしまった。当初の構想に変更を余儀なくされた汪は、しばらくそのままハノイに滞在した。1939年2月26日、長女汪文惺と何文傑の結婚式がハノイのメトロポリタンホテルでひらかれている。 この年の3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。蔣介石が放った刺客は汪をねらったが、たまたま当日は汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった。これに先だって、汪兆銘の甥(姉の息子)で民兵と深いつながりのあった沈次高が蔣介石一派により暗殺され、汪兆銘派の首脳で宣伝を担当していた林柏生も香港で暴漢に襲われた。 汪兆銘は、3月28日付の雲南省と香港の新聞に、和平工作は汪個人の主張ではなく、本来的に蔣介石の了解事項であったことを訴えた。トラウトマン工作についても、汪のみならず蔣も和平案を認め、納得していたことを暴露したうえで、政権内で工作するわけにはいかないから、汪があえて政権外に出て政府の意思の実践に着手したのであり、その彼を裏切り者呼ばわりするのはまことに不当であると批判した。 日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪を同地より脱出させることとした。陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた影佐禎昭は陸軍のみならず関係各省の合意が必要であると主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、国会議員の犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった。山下汽船北光丸に乗り込んだ影佐らは4月14日に仏領インドシナのハイフォンに入港し、秘密裏にハノイの汪に接触した。4月25日、汪はハノイを脱出してフランス船をチャーターしてトンキン湾を北上、汕頭沖で北光丸に乗り換えて5月6日に上海に到着した。 この頃、次女の汪文彬(1938年に上海の大同大学付属高中を卒業)は、医学を学ぶため香港に向かっていたが、藍衣社(蔣介石政権側の秘密結社)によってあやうく誘拐されかけた。そのため、汪兆銘は次女を日本に送り、帝国女子医学専門学校(現、東邦大学医学部)で医学を学ばせることとした。 吹っ切れた汪兆銘は蔣介石との決別を決意した一方、蔣介石は、汪の和平工作に反対して「徹底抗戦」を訴えるとともに竜雲・李宗仁・唐生智といった、かつて汪兆銘に親しかった人物の切り崩しを工作した。ここに至って、両者は修復不能な関係に陥ったのである。
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