日中戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 07:18 UTC 版)
まもなく第29軍は第1集団軍に再編され、宋哲元が引き続き総司令となり、さらに馮治安は副総司令兼前敵総指揮、第77軍軍長に昇進した。9月に日本軍が津浦線北段に侵攻してくると、馮治安はこれを迎撃する。まもなく宋が突然休暇をとったため、馮が代理総司令を務め、約1か月の戦闘を実質指揮することになった。10月、馮は第19軍団軍団長に昇進している。しかし、この頃になると宋の迷走する指揮や姿勢に馮は激怒し、ついには病気療養を名目に開封に引きこもってしまった。翌年3月、宋が第1戦区副司令長官に異動したため、ようやく馮は部隊に復帰、対日戦の指揮を再開している。 まもなく馮治安率いる第77軍は第5戦区に移り、国民軍時代の同僚である孫連仲や張自忠、龐炳勲と共に徐州方面で日本軍と戦うこととなる。同年8月、武漢会戦を戦い、これを経て張率いる第33集団軍に合流、馮は集団軍副総司令に任ぜられた。張と馮が率いる第33集団軍は、1939年(民国28年)5月に随棗会戦(日本側呼称襄東会戦)で勇戦するなどの活躍を見せている。1940年(民国29年)5月、棗宜会戦(日本側呼称宜昌作戦)に参戦したが、16日に張が戦死する。張は最前線に赴く直前に後事を全て馮に託しており、馮はまもなく後任として第33集団軍総司令に昇進、宜昌で日本軍と激戦を繰り広げた。 その後も馮治安は湖北省西部を中心に日本軍を相手に戦い、1944年(民国33年)冬には第6戦区副司令長官に昇進、その翌年6月には中国国民党中央監察委員に選出された。しかし馮の軍功や献身にもかかわらず、蒋介石は国民軍出身の馮を軽視し、損耗する第33集団軍への補給をほとんど全く行わないなど差別的待遇を加えている。そのため張自忠時代は3個軍だった第33集団軍は、1944年冬に至って2個師にまで縮編される有様だった。
※この「日中戦争において」の解説は、「馮治安」の解説の一部です。
「日中戦争において」を含む「馮治安」の記事については、「馮治安」の概要を参照ください。
日中戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/30 07:47 UTC 版)
1937年(民国26年)7月に日中戦争が勃発し、12月には李品仙は第11集団軍総司令(3個軍統轄)に任命される。李品仙は李宗仁が管轄する第5戦区に赴任し、台児荘の戦いや徐州会戦に参戦、日本軍に大打撃を与える軍功をあげた。翌1938年(民国27年)6月には武漢会戦に参戦し、武漢防衛軍第4兵団司令に任ぜられている。最終的に10月に武漢は陥落したが、李品仙率いる軍は他の友軍に比べ善戦し、その後湖北省で休養・再編に努めた。1939年(民国28年)4月には、随棗会戦(日本側呼称は襄東会戦)に参戦、日本軍の4個師団などと激戦を展開し、攻勢を食い止める軍功をあげた。 1939年(民国28年)11月、李品仙は安徽省政府主席に任命され、更に第21集団軍総司令に昇進した。安徽省では抗日体制の整備に取り組み、1940年(民国29年)5月の第2次随棗会戦(随宜会戦とも。日本側呼称は宜昌作戦)や1941年(民国30年)8月の第2次長沙会戦でも、日本軍への効果的な反撃に成功している。その一方で、李は共産党への弾圧・粛清も強力に遂行し、1941年(民国30年)1月には新四軍を包囲・攻撃、これを殲滅した(皖南事変)。これらの軍功もあって、1945年(民国34年)1月、第10戦区司令長官に昇進し、6月には中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。終戦に際しては、徐州方面で日本軍の降伏受諾事務に従事した。
※この「日中戦争において」の解説は、「李品仙」の解説の一部です。
「日中戦争において」を含む「李品仙」の記事については、「李品仙」の概要を参照ください。
- 日中戦争においてのページへのリンク