日中戦争(支那事変)の上海戦
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「松井石根」の記事における「日中戦争(支那事変)の上海戦」の解説
昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。 参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蔣介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。 11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。 松井の体調は、上海上陸後から余り芳しくなく、11月に入ってからは、軽度のマラリアの症状が出て、高熱にも苦しめられ、軍医から処方されたキニーネを服用しながら指揮を執った。11月4日、松井は「予自身去一日ヨリ多少風邪気味ニテ七、八度ノ熱アリシカ「マラリア」ラシク、本日ヨリ規根ヲ服用シ経過良好 此分ナラ後二、三日ニテ全復ノ見込」と記している。南京攻略戦たけなわの12月5日から15日まで蘇州の司令部に病臥、滞留していた。武藤章は「松井大将は十二月五日頃蘇州に司令部を推進さられた。だが大将は長期間の苦心と肉体的無理が積って病臥せられた。」と記している。
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