日中戦争の上海戦とは? わかりやすく解説

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日中戦争(支那事変)の上海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:10 UTC 版)

松井石根」の記事における「日中戦争支那事変の上海戦」の解説

昭和12年1937年7月7日盧溝橋事件により日中戦争支那事変勃発同年7月29日通州事件8月9日大山事件上海)が発生同年8月13日第二次上海事変勃発すると、予備役松井8月14日陸軍次官から呼び出しかかった8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて20中国軍の待つ上海向けて出港した参謀本部戦闘上海その周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団一気蔣介石軍を叩き潰し早く和平持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍上陸開始したが、上陸作戦難渋きわめた11月5日柳川平助中将率い第10軍杭州湾上陸作戦敢行、これを成功させて、状況日本軍有利になってきた。しかし、第10軍松井指揮系統下にはなかった。11月12日上海陥落したが、日本軍死者1万人近く及んだ松井体調は、上海上陸後から余り芳しくなく、11月入ってからは、軽度マラリア症状出て高熱にも苦しめられ軍医から処方されキニーネ服用しながら指揮を執った。11月4日松井は「予自身一日ヨリ多少風邪気味ニテ七、八度ノ熱アリシカ「マラリア」ラシク、本日ヨリ規根ヲ服用経過良好 此分ナラ二、三ニテ全復ノ見込」と記している。南京攻略たけなわ12月5日から15日まで蘇州司令部病臥滞留していた。武藤章は「松井大将は十二月五日蘇州司令部推進さられた。だが大将長期間苦心肉体的無理が積って病臥せられた。」と記している。

※この「日中戦争(支那事変)の上海戦」の解説は、「松井石根」の解説の一部です。
「日中戦争(支那事変)の上海戦」を含む「松井石根」の記事については、「松井石根」の概要を参照ください。

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