梅思平とは? わかりやすく解説

梅思平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 13:27 UTC 版)

梅思平
写真週報』1940年4月3日号
プロフィール
出生: 1896年光緒22年)[1]
死去: 1946年民国35年)9月14日
中華民国南京市
出身地: 浙江省温州府永嘉県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 梅思平
簡体字 梅思平
拼音 Méi Sīpíng
ラテン字 Mei Szu-p'ing
和名表記: ばい しへい
発音転記: メイ スーピン
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梅 思平(ばい しへい)は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。旧名は祖芬

事績

国立北京大学法律科の卒業生。国立中央大学、国立中央政治学校教授を経て、1933年民国22年)、江寧県(現在の南京市江寧区)県長となる。中国国民党では、CC系の一員とされる。1936年(民国25年)6月、江蘇省第10区行政督察専員に任命され、9月には同区保安司令も兼ねた。翌年5月、職を免ぜられたが、同年に国民党中央政治委員会内政委員となる。

梅思平は、周仏海の側近として「低調倶楽部」に参加し、対日和平を主張した。また、芸文研究会香港分会の責任者として、香港の国際問題研究所の専門研究員となり、『国際叢書』の編集を担当した。1938年(民国27年)8月、汪兆銘(汪精衛)側の代表として松本重治ら日本側の和平運動責任者と交渉を重ね、汪兆銘の重慶脱出を実現させた[2]

1939年(民国28年)8月、梅思平は汪兆銘に合流し、中国国民党第6期(汪派)で執行委員会常務委員に選出された[3]。翌1940年3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)の正式な成立とともに、中央政治会議指定委員[3]、国民政府工商部部長(特任官)[4]となる。5月、日本軍管理工廠接収委員会委員長となり、7月には糧食委員会委員長となった。11月、日本との『中日(日中)基本関係条約』締結に参与する。

1941年(民国30年)2月、浙江省省長を兼任し、3月に清郷委員会委員、8月に実業部部長[5]と歴任した。1943年(民国32年)1月、最高国防会議委員となり、9月、内政部部長に異動した。1945年(民国34年)5月、民衆訓練部部長も兼任する。

日本敗北後の同年9月に逮捕され、1946年(民国35年)5月9日、死刑判決を受ける。同年9月14日、南京で死刑を執行された。51歳没。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1559頁。鄭仁佳「梅思平小伝」は1896年説に言及しながらも、1898年(光緒24年)説をとる。
  2. ^ 劉傑『漢奸裁判』、277頁
  3. ^ a b 『大陸年鑑 昭和十八年』大陸新報社、400頁。
  4. ^ 『国民政府公報』(南京)、民国29年4月1日、国民政府文官処印鋳局、10頁。
  5. ^ 工商部と農鉱部が合併して実業部が成立した。そのため、事実上、梅思平の留任である。

参考文献

  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
工商部長
1940年3月 - 1941年8月
次代
(農鉱部と合併、
実業部に改組)
先代
汪瑞闓
浙江省省長
1941年2月 - 8月
沈爾喬が代理)
次代
傅式説
先代
(工商部と農鉱部が合併)
実業部長
1941年8月 - 1943年9月
次代
陳君慧
先代
陳群 (民国)
内政部長
1943年9月 - 1945年8月
次代
(廃止)




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