梅成
(?~209) |
||
廬江郡の賊。 建安十四(二〇九)年十二月《張遼伝集解》、陳蘭とともに灊・六県を挙げて叛乱を起こし、于禁・臧霸らが押し寄せてくると、梅成は軍勢三千人余りを引き連れて降服した《于禁伝》。于禁が軍勢を引き上げると、軍勢を引き連れて陳蘭のもとへ行き、一緒になって天柱山に楯籠った。張遼・張郃・朱蓋らが陳蘭を包囲していたが、天柱山は高く険しく、歩いていける道が通じているだけだった。しかし張遼は「これは一対一というやつだ。勇者なら進むことができる」と言って突き進んだ。かくて張遼らは攻撃をかけて陳蘭・梅成を斬った《張遼伝》。 【参照】于禁 / 朱蓋 / 臧霸 / 張郃 / 張遼 / 陳蘭 / 潜県(灊) / 灊山 / 天柱山 / 六県 / 廬江郡 |
梅成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 10:26 UTC 版)
梅 成(ばい せい、? - 209年)は、中国後漢時代末期の武将。揚州廬江郡の人の可能性が高い。
生涯
姓名 | 梅成 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 建安14年(209年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 揚州廬江郡? |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
灊山(せんざん)を根拠地にして活動した、後漢末の群雄の1人である。
曹操が荊州を平定した頃、梅成は盟友の陳蘭と共に、氐族の居住地で曹操に対して反乱を起こした。まもなく曹操軍の于禁・臧覇の征討を受け、梅成は一旦降伏したが、すぐに灊山へ逃げ込んで陳蘭と合流した。灊山は険阻な要害であり、また孫権軍の韓当の援軍も受けたが、梅成・陳蘭は曹操軍の張遼の猛攻に敗北し、共に斬首された。建安14年(209年)の事である。
なお、建安5年(200年)に数万人の兵を集めて長江・淮河一帯で暴れまわった人物に、陳蘭・雷緒(雷薄の事か、あるいは雷薄の縁者か)の他、梅乾という人物がいる。この人物は梅成と同一人物か、または血縁人物の可能性がある。
小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- >> 「梅成」を含む用語の索引
- 梅成のページへのリンク