揚州の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:35 UTC 版)
当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥であった。劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしたが、翌年までに夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐されて滅んだ。 豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、呉郡太守の朱治に諌止された。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが発覚し、幽閉(ゆうへい)されている。
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