揚州八怪
揚州八怪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
清中期の乾隆頃、江南の商業都市揚州には、多くの画家が活動していた。その中で個性的な画風を築いた一群の文人画家たちを「揚州八怪」と称する。「八怪」のメンバーは必ずしも8名に限定されない。鄭燮、高翔(こうしょう)、金農(きんのう)、羅聘(らへい)、黄慎(こうしん)、李鱓(りぜん)、汪士慎(おうししん)、李方膺(りほうよう)らが「揚州八怪」とみなされるが、これに華嵒(かがん)、高鳳翰(こうほうかん)、閔貞(びんてい)らを加えることもある。 鄭燮(1693 - 1765年)江蘇興化(揚州)の人。号は板橋。乾隆元年(1736年)の進士。山東の県令となるが、窮民を救済しようとしたことが上層部の方針と合わず、罷免された。晩年は揚州に住み、墨竹、墨蘭をもっぱら描いた。 高翔(1688 - 1753年)江蘇甘泉(揚州)の人。弘仁、石濤に学んだ山水をよくし、墨梅も描いた。 金農(1687 - 1763年)浙江仁和(杭州)の人。書家としては「漆書体」という独自の隷書で知られる。絵画は50歳代以降に制作。墨梅で知られる。 羅聘(1733 - 1799年)安徽歙県の人で揚州で活動した。金農の弟子で、鍾馗などの故事人物図を得意とした。 黄慎(1687 - 1770年頃)没年は1768年とも。福建寧化の人。しばしば揚州を訪れ、揚州と故郷福建の双方で活動した。独特の線を用いた人物画で知られ、山水画もある。 李鱓(1686 - 1762年)没年は1760年とも。江蘇興化(揚州)の人。宮廷画家となった後、山東の県令に任じられたこともあるが、上司と衝突して官を去り、揚州で売画で生計を立てた。写意の花卉画をよくした。 汪士慎(1686 - 1759年)安徽休寧の人。墨梅をよくした。 李方膺(1695/1696 - 1755年)江蘇南通の人。墨竹をよくした。 華嵒(1682 - 1756年)福建臨汀の人(出身は上杭とも)。人物、花鳥をよくした。独自の色使いで、南宋の院体画とも、徐渭などの写意画とも異なる、独自の写生風の花鳥画を制作した。 高鳳翰(1683 – 1748/1749年)山東膠州(こうしゅう)の人。山水、花鳥をよくした。50歳代に右手が不自由になったため左手で描くようになり、尚左生と称した。指頭画(筆の代わりに指先や爪で描く)もよくした。 閔貞(1730 - ?年)江西の人。花鳥をよくした。
※この「揚州八怪」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「揚州八怪」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。
- 揚州八怪のページへのリンク