揚州八怪とは? わかりやすく解説

揚州八怪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:00 UTC 版)

揚州八怪(ようしゅうはっかい)とは、乾隆期頃に現れた揚州を代表する一群の文人画家をいう。




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揚州八怪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「揚州八怪」の解説

中期乾隆頃、江南商業都市揚州には、多く画家活動していた。その中で個性的な画風築いた一群文人画家たちを「揚州八怪」と称する。「八怪」のメンバーは必ずしも8名に限定されない鄭燮高翔こうしょう)、金農きんのう)、羅聘(らへい)、黄慎こうしん)、(りぜん)、汪士慎(おうししん)、方膺(りほうよう)らが「揚州八怪」とみなされるが、これに華嵒(かがん)、高翰(こうほうかん)、閔貞(びんてい)らを加えることもある。 鄭燮(1693 - 1765年江蘇興化揚州)の人。号は板橋乾隆元年1736年)の進士山東県令となるが、窮民救済しようとしたことが上層部方針合わず罷免された。晩年揚州住み、墨竹、墨もっぱら描いた高翔(1688 - 1753年江蘇甘泉揚州)の人。弘仁石濤学んだ山水をよくし、墨描いた金農(1687 - 1763年浙江仁和杭州)の人。書家としては「漆書体」という独自の隷書知られる絵画50歳代以降制作。墨知られる。 羅聘(1733 - 1799年安徽歙県の人で揚州活動した金農弟子で、鍾馗などの故事人物図を得意とした。 黄慎(1687 - 1770年頃)没年1768年とも。福建寧化の人。しばしば揚州訪れ揚州故郷福建双方活動した。独特の線を用いた人物画知られ山水画もある。 (1686 - 1762年没年1760年とも。江蘇興化揚州)の人。宮廷画家となった後、山東県令任じられたこともあるが、上司衝突して官を去り揚州で売画で生計立てた写意花卉画をよくした。 汪士慎(1686 - 1759年安徽休寧の人。墨よくした方膺(1695/1696 - 1755年江蘇南通の人。墨竹をよくした華嵒(1682 - 1756年福建臨汀の人(出身上杭とも)。人物花鳥よくした。独自の色使いで、南宋院体画とも、徐渭などの写意画とも異なる、独自の写生風の花画を制作した。 高翰(1683 – 1748/1749年)山東膠州こうしゅう)の人。山水花鳥よくした50歳代右手が不自由になったため左手で描くようになり、尚左生と称した指頭画(筆の代わりに指先や爪で描く)もよくした。 閔貞(1730 - ?年江西の人。花鳥よくした

※この「揚州八怪」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「揚州八怪」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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