揚州八怪とは? わかりやすく解説

揚州八怪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:00 UTC 版)

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揚州八怪(ようしゅうはっかい)とは、乾隆期頃に現れた揚州を代表する一群の文人画家をいう。

汪士慎・李鱓・金農・黄慎・高翔・鄭燮・李方膺・羅聘のほかに辺寿民・陳撰・華嵒・高鳳翰・閔貞らを加える説もあり、八怪とはいえ必ずしも八人というわけではない。

この一派はとりわけ花鳥画に優れ、四君子と言われる梅・蘭・竹・菊を好んで画いた。その画風は自由奔放で極めて個性的であったため、沈滞した中国画壇を忽ち席捲し新風を巻き起こした。後の海上派と呼ばれる趙之謙任伯年呉昌碩斉白石らに強い影響を与えた。

概説

揚州は代より塩業が発達したが、煬帝による大規模な土木事業によって運河が開かれると南北の水運交通の要衝となり、代には目覚ましい商業的発展がみられた。揚州商人の中でもことに塩商人は大きな利権を得て、その豪勢な生活ぶりは天下に知られた。代には一時杭州にその地位を奪われるが、代中期には再び奪還し、明末には唐代を凌ぐ繁栄をみせた。明滅亡後、揚州においても清軍による大虐殺が行われ一旦は廃墟となったが、その後急速な復興を果たし乾隆期には絶頂期を迎えた。

揚州の塩商人や織物商人はその巨万の富をもって積極的に文化・芸術のパトロン的な役割を担い競って楼閣庭園を築き書画を多く求めた。このため全国各地から文人墨客が雲集し揚州は絢爛たる学芸都市となっていった。揚州二馬と称される馬氏兄弟は塩商人の代表格で小玲瓏山館は文人のサロンとして全国に名を知られた。この他にも徐氏や汪棣などのところにも多くの文人・学者が寄寓している。

揚州八怪もこのような揚州商人の庇護を受けてその芸術を開花させた。彼らは皆、伝統的な教養をもった正統な文人であり、画のみならずにも巧みであった。八怪の画法は当時正統とされた四王呉惲水墨画の画法とは異なり、逸格の水墨画の流れを汲む。輪郭線を基本とせず、墨の面的な使用を特徴とする技法であり、この流れは宋末の牧谿にまで遡り、明代の沈周・陳淳・徐渭、清初の八大山人石濤と続き、八怪になると彩色にも応用された。八怪の怪とは、当時の伝統的画法に比べて奇異であるとともになおかつ優れている点にあり、また彼らが高潔を重んじる文人でありながら近代的な職業画家として活動したことも含んでいると思われる。

八怪の呼称は清末の光緒年間に出版された李玉棻の『甌鉢羅室書画過目録』(1897年)が初見で、羅聘・李方膺・李鱓・金農・黄慎・鄭燮・高翔・汪士慎の八人が記述されている。同じく光緒年間に出版された汪鋆の『揚州画苑録』では、「怪以八名」として、李勉を加えている。その後、近代になって黄賓虹は『古画微』で、黄慎を削り辺寿民・陳撰・華嵒を加え、陳衡恪は『中国絵画史』において閔貞を加えている。

関連項目

出典


揚州八怪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「揚州八怪」の解説

中期乾隆頃、江南商業都市揚州には、多く画家活動していた。その中で個性的な画風築いた一群文人画家たちを「揚州八怪」と称する。「八怪」のメンバーは必ずしも8名に限定されない鄭燮高翔こうしょう)、金農きんのう)、羅聘(らへい)、黄慎こうしん)、(りぜん)、汪士慎(おうししん)、方膺(りほうよう)らが「揚州八怪」とみなされるが、これに華嵒(かがん)、高翰(こうほうかん)、閔貞(びんてい)らを加えることもある。 鄭燮(1693 - 1765年江蘇興化揚州)の人。号は板橋乾隆元年1736年)の進士山東県令となるが、窮民救済しようとしたことが上層部方針合わず罷免された。晩年揚州住み、墨竹、墨もっぱら描いた高翔(1688 - 1753年江蘇甘泉揚州)の人。弘仁石濤学んだ山水をよくし、墨描いた金農(1687 - 1763年浙江仁和杭州)の人。書家としては「漆書体」という独自の隷書知られる絵画50歳代以降制作。墨知られる。 羅聘(1733 - 1799年安徽歙県の人で揚州活動した金農弟子で、鍾馗などの故事人物図を得意とした。 黄慎(1687 - 1770年頃)没年1768年とも。福建寧化の人。しばしば揚州訪れ揚州故郷福建双方活動した。独特の線を用いた人物画知られ山水画もある。 (1686 - 1762年没年1760年とも。江蘇興化揚州)の人。宮廷画家となった後、山東県令任じられたこともあるが、上司衝突して官を去り揚州で売画で生計立てた写意花卉画をよくした。 汪士慎(1686 - 1759年安徽休寧の人。墨よくした方膺(1695/1696 - 1755年江蘇南通の人。墨竹をよくした華嵒(1682 - 1756年福建臨汀の人(出身上杭とも)。人物花鳥よくした。独自の色使いで、南宋院体画とも、徐渭などの写意画とも異なる、独自の写生風の花画を制作した。 高翰(1683 – 1748/1749年)山東膠州こうしゅう)の人。山水花鳥よくした50歳代右手が不自由になったため左手で描くようになり、尚左生と称した指頭画(筆の代わりに指先や爪で描く)もよくした。 閔貞(1730 - ?年江西の人。花鳥よくした

※この「揚州八怪」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「揚州八怪」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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