揚州八怪
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ナビゲーションに移動 検索に移動揚州八怪(ようしゅうはっかい)とは、清朝乾隆期頃に現れた揚州を代表する一群の文人画家をいう。
汪士慎・李鱓・金農・黄慎・高翔・鄭燮・李方膺・羅聘のほかに辺寿民・陳撰・華嵒・高鳳翰・閔貞らを加える説もあり、八怪とはいえ必ずしも八人というわけではない。
この一派はとりわけ花鳥画に優れ、四君子と言われる梅・蘭・竹・菊を好んで画いた。その画風は自由奔放で極めて個性的であったため、沈滞した中国画壇を忽ち席捲し新風を巻き起こした。後の海上派と呼ばれる趙之謙・任伯年・呉昌碩や斉白石らに強い影響を与えた。
概説
揚州は漢代より塩業が発達したが、隋の煬帝による大規模な土木事業によって運河が開かれると南北の水運交通の要衝となり、唐代には目覚ましい商業的発展がみられた。揚州商人の中でもことに塩商人は大きな利権を得て、その豪勢な生活ぶりは天下に知られた。宋代には一時杭州にその地位を奪われるが、明代中期には再び奪還し、明末には唐代を凌ぐ繁栄をみせた。明滅亡後、揚州においても清軍による大虐殺が行われ一旦は廃墟となったが、その後急速な復興を果たし乾隆期には絶頂期を迎えた。
揚州の塩商人や織物商人はその巨万の富をもって積極的に文化・芸術のパトロン的な役割を担い競って楼閣庭園を築き書画を多く求めた。このため全国各地から文人墨客が雲集し揚州は絢爛たる学芸都市となっていった。揚州二馬と称される馬氏兄弟は塩商人の代表格で小玲瓏山館は文人のサロンとして全国に名を知られた。この他にも徐氏や汪棣などのところにも多くの文人・学者が寄寓している。
揚州八怪もこのような揚州商人の庇護を受けてその芸術を開花させた。彼らは皆、伝統的な教養をもった正統な文人であり、画のみならず詩や書にも巧みであった。八怪の画法は当時正統とされた四王呉惲の水墨画の画法とは異なり、逸格の水墨画の流れを汲む。輪郭線を基本とせず、墨の面的な使用を特徴とする技法であり、この流れは宋末の牧谿にまで遡り、明代の沈周・陳淳・徐渭、清初の八大山人・石濤と続き、八怪になると彩色にも応用された。八怪の怪とは、当時の伝統的画法に比べて奇異であるとともになおかつ優れている点にあり、また彼らが高潔を重んじる文人でありながら近代的な職業画家として活動したことも含んでいると思われる。
八怪の呼称は清末の光緒年間に出版された李玉棻の『甌鉢羅室書画過目録』(1897年)が初見で、羅聘・李方膺・李鱓・金農・黄慎・鄭燮・高翔・汪士慎の八人が記述されている。同じく光緒年間に出版された汪鋆の『揚州画苑録』では、「怪以八名」として、李勉を加えている。その後、近代になって黄賓虹は『古画微』で、黄慎を削り辺寿民・陳撰・華嵒を加え、陳衡恪は『中国絵画史』において閔貞を加えている。
関連項目
出典
揚州八怪
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清中期の乾隆頃、江南の商業都市揚州には、多くの画家が活動していた。その中で個性的な画風を築いた一群の文人画家たちを「揚州八怪」と称する。「八怪」のメンバーは必ずしも8名に限定されない。鄭燮、高翔(こうしょう)、金農(きんのう)、羅聘(らへい)、黄慎(こうしん)、李鱓(りぜん)、汪士慎(おうししん)、李方膺(りほうよう)らが「揚州八怪」とみなされるが、これに華嵒(かがん)、高鳳翰(こうほうかん)、閔貞(びんてい)らを加えることもある。 鄭燮(1693 - 1765年)江蘇興化(揚州)の人。号は板橋。乾隆元年(1736年)の進士。山東の県令となるが、窮民を救済しようとしたことが上層部の方針と合わず、罷免された。晩年は揚州に住み、墨竹、墨蘭をもっぱら描いた。 高翔(1688 - 1753年)江蘇甘泉(揚州)の人。弘仁、石濤に学んだ山水をよくし、墨梅も描いた。 金農(1687 - 1763年)浙江仁和(杭州)の人。書家としては「漆書体」という独自の隷書で知られる。絵画は50歳代以降に制作。墨梅で知られる。 羅聘(1733 - 1799年)安徽歙県の人で揚州で活動した。金農の弟子で、鍾馗などの故事人物図を得意とした。 黄慎(1687 - 1770年頃)没年は1768年とも。福建寧化の人。しばしば揚州を訪れ、揚州と故郷福建の双方で活動した。独特の線を用いた人物画で知られ、山水画もある。 李鱓(1686 - 1762年)没年は1760年とも。江蘇興化(揚州)の人。宮廷画家となった後、山東の県令に任じられたこともあるが、上司と衝突して官を去り、揚州で売画で生計を立てた。写意の花卉画をよくした。 汪士慎(1686 - 1759年)安徽休寧の人。墨梅をよくした。 李方膺(1695/1696 - 1755年)江蘇南通の人。墨竹をよくした。 華嵒(1682 - 1756年)福建臨汀の人(出身は上杭とも)。人物、花鳥をよくした。独自の色使いで、南宋の院体画とも、徐渭などの写意画とも異なる、独自の写生風の花鳥画を制作した。 高鳳翰(1683 – 1748/1749年)山東膠州(こうしゅう)の人。山水、花鳥をよくした。50歳代に右手が不自由になったため左手で描くようになり、尚左生と称した。指頭画(筆の代わりに指先や爪で描く)もよくした。 閔貞(1730 - ?年)江西の人。花鳥をよくした。
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