徐渭
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徐 渭(じょ い、Xu Wei、正徳16年2月4日(1521年3月12日) - 万暦21年(1593年))は、中国明代の文人。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮。その作風は後世に大きな影響を与えた。しかし、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど破滅的で不遇な生涯を送った。
- ^ 越城区人民政府 青藤書屋 2018年7月11日閲覧。
- ^ 1553年、王直の倭寇戦で戦死。徐渭はその死を悼み「彭応時小伝」を書いた。
- ^ 字は尚賓。越中十子の一人。倭寇を討伐したとき多数の日本刀を入手。一本を徐渭に贈る。
- ^ 胡宗憲が嘉靖帝に白鹿を献上した時の上奏文「代初進白牝鹿表」が出世作とされる。
- ^ 1562年、宰相の厳嵩・厳世蕃父子の不正事件に連座し投獄される。一度は釈放されるが1565年に再び投獄され獄中で自殺した。徐渭は「祭少保公文」を書きその死を悼んだ。
- ^ 万暦帝即位(1572年)による大赦により釈放される。
- ^ 『徐文長三集』巻23
- ^ 草花・果物・野菜などの身近で雑多なものをモチーフとする。この題材は、牧谿・沈周・陳淳・徐渭・八大山人・石濤・揚州八怪・海上派と続いており単なる花鳥画の域を超えたジャンルと捉え自由で個性的な近代絵画の主流になったとしている。米澤嘉圃「明代における花卉雑画の系譜」(『泉屋博古館紀要』2、1985年)
- ^ 北京にある文房具老舗
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