その他の明中期の画家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
沈周、文徴明と並び明の四大画家と称されるのは、文徴明と同年生まれの唐寅(とういん)と、一世代後の職業画家である仇英(きゅうえい)で、ともに蘇州で活動した。かつては、唐、仇らを「院派」として区別することもあった。やや時代が下る徐渭(じょい)は、激しい内面を奔放な水墨に表した個性的な画家として知られる。他に浙派、呉派のいずれにも分類しがたい画家として、謝時臣(しゃじしん)、周之冕(しゅうしべん)、史忠(しちゅう)、郭詡(かくく)らがいる。 唐寅(1470 - 1523年)は字を伯虎という。号は六如居士など。弘治11年(1498年)、応天府(南京)の解元(郷試の首席合格者)となったが、翌年の北京の会試(中央の科挙)では不正事件に連座して仕官の途をあきらめ、以後は売画によって生活した。自ら「江南第一の風流才子」と称する多趣味で奔放な性格で、奇行も多かったという。絵は沈周に学び、元末四大家のほか南宋画院の馬遠・夏珪の影響も受けている。人物、山水、花鳥のいずれもよくした。 仇英(1494? - 1552年?)は、字を実父、号を十洲という。江蘇太倉の出身で、のち蘇州で活動した。若い時は漆職人であった。絵は周臣に学び、青緑山水や人物をよくした。写実的で精緻な山水・人物の他に、粗放な筆致の水墨画もある。 徐渭(1521 - 1593年)は、字は文清のち文長、天池山人、青藤道士と号した。浙江山陰(紹興)の人で、絵のほか詩文、書をよくし、戯曲も書いた。妻殺しで下獄するなどの数奇な人生を送った人物で、溌墨による写意の花卉画に本領を発揮した。内面の葛藤を画面にぶつけるような激しい筆致の水墨画を残した。 謝時臣(1487 - 1557年以後) - 呉県(蘇州)の人。文徴明、周臣、仇英らと交友があった。画風は沈周(呉派)、戴進(浙派)を折衷した様式。 周之冕(生没年不明) - 江蘇長洲(呉県)の人。花鳥画をよくした。 史忠(1436? - 1519?年) - またの名を徐端本という。金陵(南京)出身の文人画家。画風は南宗画系。沈周と交友があったが作風は異なる。 郭詡(1456 - 1529年以後) - 江西泰和県の人。写意的な人物画を描いた。 沈周『自画像』(北京故宮博物院) 沈周『策杖図』(台北故宮博物院) 李士達『秋景山水図』 唐寅『山路松声図』(台北故宮博物院) 戴進『関山行旅図』(北京故宮博物院) 徐渭『菊竹図』(遼寧博物館)
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