その他の旧西金堂諸仏
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「興福寺の仏像」の記事における「その他の旧西金堂諸仏」の解説
木造金剛力士立像 2躯(国宝館所在)(国宝) 鎌倉時代。像高 阿形154.0cm、吽形153.7cm もと西金堂に安置されていた一対の仁王像で、鎌倉復興期の作である。寺門を守護する仁王像と異なり、仏堂に安置されていたものなので、像高は1.5メートル強と小型である。2躯ともにヒノキ材の寄木造で玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を用いる。開口する阿形(あぎょう)像の腰裳、口を閉じる吽形(うんぎょう)像の脛などには塑土を盛り上げている。肉身部は阿形像は朱色、吽形像は白色に塗り、両像の腰裳には彩色と截金によって文様を表す。寄木造の像では前後左右に材を寄せるのが一般的だが、本像は上半身と下半身を別材で造っており、これは激しい身振りを表現するための工夫とみられる。阿形像の左足先、吽形像の右手首から先と乳頭などを欠失する。 江戸時代の『興福寺濫觴記』には、本像は春日大仏師定慶の作で、正応元年(1288年)、大仏師善増と大仏師観実が修理した旨の記載がある。大正2年(1913年)の修理時に吽形像の像内から見出された紙本墨書の修理銘にも作者、修理者、修理時期について同様の記載があった。像は緊張した筋肉や血管の浮き出るさまを写実的に表現しているが、吽形像の体勢には破綻も指摘されている。作者は、寺伝のように定慶の作とする確証はなく、定慶周辺の仏師の作と考えられている。東金堂の十二神将像のうち伐折羅大将像との顔貌の類似が指摘されている。 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝館所在)(国宝) 龍燈鬼は鎌倉時代、建保3年(1215年)康弁作。天燈鬼は鎌倉時代、作者不明(康弁またはその周辺の作)。像高 天燈鬼78.2cm、龍燈鬼 77.8cm もと西金堂に安置されていた一対の鬼形像である。ともにヒノキ材の寄木造で玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を用いる。天燈鬼像は三眼を有し、腰に獣皮の腰巻を着ける。左肩に乗せた燈籠を左手で支え、腰を左にひねり、右手は拳をつくって外方に突き出し、体のバランスをとっている。龍燈鬼像は褌を着け、腕組みをして直立し、体には龍が巻き付く。頭上に乗せた燈籠を上目使いで見上げている。両像の顎には植毛の跡があり、龍燈鬼は眉に銅板、牙に水晶、龍の鰭(ひれ)に革を用いるなど、木材以外の材料を使用している。天燈鬼像は開口、龍燈鬼は閉口で阿吽の一対をなす。もと天燈鬼像は朱色、龍燈鬼像は緑色に塗られていたが、現状は彩色がほとんど剥落している。 中金堂・西金堂が享保2年(1717年)に焼失した際の記録である『享保丁酉日次記』には、この時焼け残った像として「天燈龍燈」が挙げられており、これが本像に該当する。同記録には、龍燈鬼像の像内に「建保三年法橋庚弁作」(「庚」は原文ママ)の書付のある紙片があったと記載されているが、この書付の存在は現在確認できない。 木造仏頭(附 仏手2箇)(国宝館所在)(重要文化財) 鎌倉時代、文治5年(1189年)頃、運慶作とする説がある。総高98.0cm 如来像の頭部のみが残ったもので、前後の材の矧面(はぎめん)に「西金堂釈迦」の墨書があることが修理時に確認されている。鎌倉復興期に造られた西金堂本尊釈迦如来像の頭部で、享保2年(1717年)の西金堂焼失時に救い出されたものと推定される。同じ像のものと思われる仏手2箇も現存する。2箇とも手首から先の部分のみが残り、親指以外の指を折損する。 『類聚世要抄』という史料に西金堂釈迦像を運慶が造立したことが記されることから、この仏頭がそれに該当し、運慶の作である可能性が高い。ただし、同時期の運慶作品との作風の相違などから、現存する仏頭を運慶と結び付けることには、なお慎重な意見もある。 木造飛天・化仏 11躯(飛天8、化仏3)(国宝館所在)(重要文化財) 鎌倉時代、文治5年(1189年)頃。総高 飛天35.0〜 62.0cm、化仏 30.8〜 36.7cm 上述の木造仏頭と同様、西金堂の遺物とされるもので、西金堂本尊釈迦如来像の光背に附属していたものと推定される。飛天8躯と如来形の化仏(けぶつ)3躯が現存する。 木造仏頭 金剛力士(阿形) Kongōrikishi by anonymous sculptor (Kōfuku-ji, 2) (National Treasure).jpg 金剛力士(吽形) 竜燈鬼 天燈鬼
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