元末四大家
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ナビゲーションに移動 検索に移動元末四大家(げんまつしたいか)は、中国元代末期の文人画家である4人のこと。
概説
以下の4人を指す。
4人ともに元初の趙孟頫の復古主義的な画法に共鳴し、董源・巨然などの江南山水画様式を受け継ぎ、各々が個性的な画風を確立した。
文献的にはこの呼称は明代の何良俊の著した画論『四友斎叢説』に「黄呉倪王四大家」が初見[1]と見られる。明初の王紱、明代中期の沈周や文徴明らの文人の間でこの四大家が盛んに称揚された。さらに明末の董其昌の南北宗論を受けて清朝になると絶大な評価を得る。とりわけ四王呉惲の南宗正統派とされる画派からは強く信奉された。
出典
- 中田勇次郎『文人画論集』中央公論社、1982年、ISBN 4120011321。
脚注
- ^ 元の夏文彦『図絵宝鑑』が初見とする説がある。
元末四大家
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黄公望(1269 - 1354?年)は江蘇常熟の人。旧姓は陸で、後に黄家の養子となる。字は子久で、大癡(だいち、「大馬鹿者」の意)、一峯道人などと号した。若い時には仕官したこともあったが、ある事件に連座して投獄された後、仕官をあきらめて各地を放浪し、売卜(占い)で生計を立てたという。本格的に絵を始めたのは50歳を過ぎてからのこととされる。画論『写山水訣』がある。絵の代表作には『富春山居図』(台北故宮博物院)がある。同図は長さ6メートルを超える画巻で、公望が晩年に隠棲した浙江富春郷の山水を描いたものであり、至正7年(1347年)から3年間をかけて完成した。『富春山居図』を所持していた清時代の収集家・呉洪裕は、自らの死の直前に図を火にくべて燃やそうとしたが、焼失する前に絵は救い出された。しかし、その際に巻頭の部分が損傷して切断された。現在、浙江省博物館に所蔵される『剰山図』がその巻首部分であるという。 呉鎮(1280 - 1354年)は浙江嘉興魏塘鎮の人。字は仲圭で、梅花道人と号した。元末四大家のうち他の3者は互いに交友があったが、呉鎮のみは他の文人と交わらず、孤高清貧の生涯を送った。元末四大家の他の3者が水墨画・着色画の双方を描いたのに対し、呉鎮はもっぱら水墨の山水や墨竹を描いた。絵は江南山水画の董巨(董源と巨然)に倣う。代表作に至正元年(1341年)の『洞庭漁隠図』(台北故宮博物院)などがある。 倪瓚(1301 - 1374年)は無錫の代々の富豪の家に生まれた。初名は珽(てい)で、後に瓚に改めた。字は元鎮で、雲林、荊蛮民、幻霞生などと号した。倪瓚は早くに父を亡くし、長兄によって養育された。長兄の没後は28歳で家督を継いだ。家柄から、倪瓚の家には多数の書物や書画があり、文人との交友も多かった。しかし、50歳を過ぎて、家財を売り払い、各地を転々と放浪する生活を20年近くも続けた。典型的な画風は「蕭散体」(しょうさんたい)あるいは「一河両岸」と称されるもので、モチーフを絞り、余白の多い画面を特色とする。近景に土手と数本の樹木や亭を描き、遠景に小さく山を配し、その間の中景を広い水面とする構図が典型的で、前述の「一河両岸」はこの構図に由来する。代表作に至正15年(1355年)の『漁荘秋霽図』(上海博物館)、洪武5年(1372年)の『容膝斎図』(台北故宮博物院)などがある。 王蒙(1301または1308年 - 1385年)は湖州(浙江呉興)の人。字は叔明で、香光居士、黄鶴山樵などと号した。元末四大家の中では唯一官途につき、理問という下級官吏であった。画風は倪瓚とは反対に、画面の下から上までモチーフを隙間なく積み上げ、細かく描き込むのが特色である。元の滅亡後は明に仕えたが、胡惟庸の獄に連座し、獄死した。代表作に至正26年(1366年)の『青卞隠居図』(せいべんいんきょず、上海博物館)などがある。
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