四王呉惲とは? わかりやすく解説

四王呉惲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「四王呉惲」の解説

四王呉惲(しおうごうん)は、清初六大家のこと。王時敏王鑑・王翬・王原祁呉歴惲寿平の6人のことを指す。 王時敏(1592 - 1680年)は江蘇太倉の人で、字は遜子、号は烟客。万暦29年1601年)の進士である。王鑑(1598 - 1677年)は王時敏と同じ江蘇太倉の人で、字は元照、のち円照、号は湘碧、染香庵主など。崇禎6年1633年)の挙人である。王時敏王鑑両名とも名家出身で、両者祖父はともに高名な文人であり(王鑑祖父王世貞)、両家には学ぶべき古画多数所蔵されていた。王時敏王鑑はともに董其昌師事した明末には官を辞して自適の生活を送り清朝には仕えなかった点も両者共通する四王のうちの王原祁王時敏の孫であるが、王翬のみは他の3名のような名門の出ではない。王翬(1632 - 1717年)は太倉近く江蘇虞山(常熟)の出身で、字は石谷、号は耕烟山人清暉主人。王翬は、20歳時に王鑑見出され王時敏師事した古画模写を得意とし、若い時は王時敏について古画所蔵家を歴訪し模写励んだ。後には画聖呼ばれ康熙30年1691年)、60歳時には康熙帝の南巡(江南地方視察)の記録画の作成命じられ2年かけて12巻大作完成させた。 王時敏孫・王原祁(1642 - 1715年)は字を茂宗、号を震台という。祖父王時敏指導幼少期から絵を学んだ王時敏は「元末四大家精神伝えたのは董其昌、形を伝える点では自分王時敏)も負けていないが、精神と形をともに伝えるのは王原祁だ」と称揚した王原祁康熙9年1670年)の進士で、宮廷画家となり、康熙帝信任が篤かった。 呉歴(1632 - 1718年)は江蘇常熟の人。字は漁山、号は墨井道人。絵を王時敏に学ぶ。家族失った後、仏教続いてキリスト教に入信し、マカオキリスト教宣教師として活動した。ただし、画風には西洋の影響みられない惲寿平(1633 - 1690年)は江蘇武進常州)の人。初めは名を格、字を寿平といったが、後に寿平を名とし、字を王叔改めた。号は南田山水画もあるが、没骨彩色花卉画を得意とした。 王鑑『倣呉鎮山水図惲寿平『倣倪瓚古木叢篁図』(台北故宮博物院)

※この「四王呉惲」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「四王呉惲」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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