四王呉惲
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四王呉惲(しおうごうん)は、清初六大家のこと。王時敏・王鑑・王翬・王原祁・呉歴・惲寿平の6人のことを指す。 王時敏(1592 - 1680年)は江蘇太倉の人で、字は遜子、号は烟客。万暦29年(1601年)の進士である。王鑑(1598 - 1677年)は王時敏と同じ江蘇太倉の人で、字は元照、のち円照、号は湘碧、染香庵主など。崇禎6年(1633年)の挙人である。王時敏、王鑑の両名とも名家の出身で、両者の祖父はともに高名な文人であり(王鑑の祖父は王世貞)、両家には学ぶべき古画が多数所蔵されていた。王時敏、王鑑はともに董其昌に師事した。明末には官を辞して自適の生活を送り、清朝には仕えなかった点も両者に共通する。 四王のうちの王原祁は王時敏の孫であるが、王翬のみは他の3名のような名門の出ではない。王翬(1632 - 1717年)は太倉の近くの江蘇虞山(常熟)の出身で、字は石谷、号は耕烟山人、清暉主人。王翬は、20歳の時に王鑑に見出され、王時敏に師事した。古画の模写を得意とし、若い時は王時敏について古画の所蔵家を歴訪し模写に励んだ。後には画聖と呼ばれ、康熙30年(1691年)、60歳の時には康熙帝の南巡(江南地方視察)の記録画の作成を命じられ、2年かけて12巻の大作を完成させた。 王時敏の孫・王原祁(1642 - 1715年)は字を茂宗、号を震台という。祖父王時敏の指導で幼少期から絵を学んだ。王時敏は「元末四大家の精神を伝えたのは董其昌、形を伝える点では自分(王時敏)も負けていないが、精神と形をともに伝えるのは王原祁だ」と称揚した。王原祁は康熙9年(1670年)の進士で、宮廷画家となり、康熙帝の信任が篤かった。 呉歴(1632 - 1718年)は江蘇常熟の人。字は漁山、号は墨井道人。絵を王時敏に学ぶ。家族を失った後、仏教、続いてキリスト教に入信し、マカオでキリスト教の宣教師として活動した。ただし、画風には西洋の影響はみられない。 惲寿平(1633 - 1690年)は江蘇武進(常州)の人。初めは名を格、字を寿平といったが、後に寿平を名とし、字を王叔と改めた。号は南田。山水画もあるが、没骨彩色の花卉画を得意とした。 王鑑『倣呉鎮山水図』 惲寿平『倣倪瓚古木叢篁図』(台北故宮博物院)
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