後世への影響と評価
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董其昌の革新的な画風はすぐ後に続く呉彬・陳洪綬・丁雲鵬・米万鍾・李士達・盛茂燁などエキセントリックな画家や松江派・杭州派・金陵派・新安派といった江南都市絵画、あるいは四王呉惲の南宗正統派などの先駆となった。またその画論は文人画家の大きなよりどころとなった。以上のことから明末清初の多様な絵画の潮流は董から興ったといってよい。 後世において董其昌の画は高く評価されている。特に清の文人皇帝である乾隆帝は董其昌の書画を愛したことで知られる。たとえば「婉孌草堂図」に対して22題もの記念の詩をぎっしり書き込んでしまっているがその偏愛ぶりが窺える。 しかし、現代になると董其昌への評価は手厳しくマイケル・サリバンなどは技巧が目立ちすぎ気韻が見えないとしている。一方、川原正二などは董其昌の書は筆力が不足しているとしながらも画については手放しで絶賛している。
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後世への影響と評価
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「ジャンヌ・ダルク」の記事における「後世への影響と評価」の解説
ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ(Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている。 辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。 その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー 男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった。 しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母ジャンヌ・ド・リュクサンブールは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている。 ジャンヌはナポレオン1世の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。自由主義者たちは、ジャンヌが下層階級の出身であることの重要性を力説した。[要出典]初期の保守主義者たちは、ジャンヌの王族に対する献身を強調したが、のちにジャンヌは国粋主義者であるとして、その評価を撤回している。[要出典]第二次世界大戦では、親ドイツのヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンス(英語版)の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。 フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。 エマニュエル・フレミエが1874年に制作したジャンヌの黄金像。ピラミッド広場、パリ。 第二次世界大戦中にシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス旗。中央の赤い十字架はジャンヌを象徴するロレーヌ十字である。 剣を振り掲げるジャンヌの騎馬像。 カリフォルニア・レジョンドヌール美術館、サンフランシスコ。
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